両親を鍼灸師に持った私は今まで病院知らずの薬知らずで育ちました。熱が出てはニンジンジュース(解熱には抜群です)と鍼、ねんざをしてはお灸、下痢をしたらおへその塩灸、夜中歯が痛くなった時も曲池穴(腕の関節)に多壮灸(多くのお灸をすえる事)といった具合でした。また、医食同源(食事をおろそかにして健康は無い)の精神が徹底されていて、幼い頃は玄米食をしていました。
祖父 故 栗崎正明
母 故 橋本 和
しかし、玄米は栄養価が高いので、おかずは野菜が多く、かなり質素。其の上、玄米は硬いので食事の前に「よく噛めよ」の歌(たぶん母作詞作曲)まで歌ってから食事をするという毎日です。 当時はまっ白なお米にあこがれたものでしたが、今思えば生活の中に季節感がたくさんあり、知らず知らずのうちにどの様な食事が体にいいのか、 そして何より病気には鍼が一番という事を肌から学んでいった様に思います。
母は祖父が鍼灸師であった事から14歳で免許を取得し71歳で亡くなるまでの57年間鍼灸を愛し、患者さんを思い勉強し続けた人でした。口癖のように「患者さんから学びなさい」と言っていました。様ざまな患者さんが居られました。今は亡き歌舞伎界の人間国宝、中村歌右衛門さんにもご縁があり、治療の様子などを聞いた事は小さいながらも強く印象に残っています。また、私が鍼をしようと決意するきっかけとなった高校生のM君がいました。彼は重症なネフローゼでお医者さんからも野球人生は諦めるようにと言われていました。母は随分苦労していましたが、鍼で見事に完治させ、彼は高校野球でホームランを飛ばすなど大活躍をしました。
母は祖父が鍼灸師であった事から14歳で免許を取得し71歳で亡くなるまでの57年間鍼灸を愛し、患者さんを思い勉強し続けた人でした。口癖のように「患者さんから学びなさい」と言っていました。
様ざまな患者さんが居られました。今は亡き歌舞伎界の人間国宝、中村歌右衛門さんにもご縁があり、治療の様子などを聞いた事は小さいながらも強く印象に残っています。また、私が鍼をしようと決意するきっかけとなった高校生のM君がいました。彼は重症なネフローゼでお医者さんからも野球人生は諦めるようにと言われていました。母は随分苦労していましたが、鍼で見事に完治させ、彼は高校野球でホームランを飛ばすなど大活躍をしました。
彼の活躍がテレビで紹介されたことを機に、全国から問い合わせがあり鍼灸院はごった返していました。私は、11年間母を手伝っていましたが、中途半端な勉強ではこの仕事はできないとの理由で、免許は取得していませんでした。しかし、母の忙しさを見て本気で勉強しようと決意をしました。M 君との出会いは、私にとっても大きな人生の転機となりました。今ではすっかり鍼灸の魅力にとりつかれてしまいました。
母は53歳の時、今までの鍼灸のやり方を捨て、藤本蓮風先生をトップとする北辰会に入会しました。古典を基盤に弁証論治という方法で丁寧な問診から始まり、顔面、脈、お腹、皮膚、穴などの状態を様々な角度から多面的に観察し、分析を加え少数の鍼で全体のバランスを整えていくという画期的で、とても有効な治療法です。
家ではいつも蓮風先生のお講義のテープが流れていましたので、私が実際お会いした時は、なにかとても懐かしい感じがした事を覚えています。素晴らしい先生との出会いは、私にはこの鍼灸で多くの人の御身体を診させて頂く使命があるのだと感ぜずにはいられません。 現在、奈良におられる先生の下に通い勉強させていただいています。
痛みから膵臓癌発見まで 母は平成16年6月頃から、胸部、背部の痛みを訴えるようになり、4,5箇所の病院で検査をうけましたが、異常無しとの診断でした。検査にでないので、心療内科を紹介されたりもしました。最後に行った病院では「線維筋痛症」といった病名でした。こんな納得のいかない診断に憤りを感じながら、鍼灸師である兄と共に母に毎日鍼灸をし、痛みの部位を冷蔵庫で冷やしたタオルをあて続けました。その回数は並ではありません。千回は軽く超えていたでしょう。そんな毎日が三カ月ほど続き、一進一退の中、温泉にいったり8月には福島県の田舎に帰ることもできました。
藤本蓮風先生 直筆
今となってはすぐ発見されなくて良かったと思っています。それにしても、私のタオル千回より、母の痛みに対する忍耐はそれこそ並みではなかったと合掌する思いです。
母は9月に入り、衰弱が激しくなり、近所のクリニックに点滴を受けるため連れて行きました。そこのH先生がS病院で貰ったと差し出した坐薬をみて、「この薬は・・・ただ事ではありませんよ」と言われ、改めて検査をして頂きました。忘れもしない検査3日目の9月30日、「膵臓癌末期。もっても今年いっぱいです。」との宣告をうけました。それからの闘いは言葉ではいい尽くせない程家族が団結して病魔と闘い抜きました。母のおかげであまりにも沢山のことを勉強させて頂きました。
10月3日から約1ヶ月半入院し、その間2週間自宅で療養しました。母には悩んだ末、告知をしましたが、「そう、じゃあ治さなくっちゃね!」といい最後まで涙一滴見せませんでした。つい最近まで元気に働いていましたので、病院に縛り付けられていることがどれ程嫌だったことでしょう。しかし母はすさまじい生命力でむしろ周囲に笑いさえ与えてくれました。また、看護婦さん大変だからと、苦しくても、何でも自分でしようとする母にナースコールを押すようにと何回看護婦さんに注意されたことでしょう。でも、こんな風に人に頼ることなく頑張ってきた母も、「人間決して一人では生きられないね、こんなにお世話になるなんて」と。世界各国の言葉で「ありがとう」といい感謝感謝の毎日を過ごしました。それも、病情が悪くなれば成る程母は周りの人に感謝し、その精神はますます強く逞しくなっていくようでした。
病室では兄と2人で毎日、何回も何回も鍼灸治療をしました。主治医からは「出血して亡くなるか呼吸困難で亡くなるのかどちらかですね」と言われましたが、どちらも無く全員が見守る中、私の腕の中で眠るように逝きました。体は菟蘆面(まわたのように)の如く柔らかく、顔面には光沢があり、半眼半口の本当に美しい相に何百回きれいねと言ったことでしょう。
「人は生きたようにしか死ねない」といつも言っていた母。苦しみ悩める人の為、鍼灸一筋に生き抜いた母の真っ白な腕に勲章のようにお灸のあとが輝いていました。
現在、高度医療の発達、薬の開発にもかかわらずなぜ、癌の死亡率が減少しないのでしょうか。ここまで健康に皆が関心をもち、努力しているにもかかわらずなぜ病人が増え続けるのでしょうか。アスベストや輸血の問題など人為的なものは論外として、私はもっと人間が自然を見つめ謙虚に自然から学び、自分自身の中にある自然治癒力を信じるべきだと感じます。
この大自然との調和の崩れが「ひずみ」となって病気を生みます。むやみに薬を投与し、自然治癒力を破壊するようなハードパワーは決して長続きしません。また、体のみをあれこれ検査するだけの医療は真の医療とは思えません。なぜなら精神と身体の関係は切っても切れない関係だからです。
患者さんの声に耳を傾け、人間が直接人間の肌に触り、体表に表われる情報から「ひずみ」を感じ取り、自然治癒力を引き出すお手伝いをさせて頂くこの東洋医学のソフトパワーの医療こそ21世紀に広げなくてはならない医療であると確信しています。 母の病を通して、私は一瞬一瞬の命の重みを痛いほど感じさせていただきました。
そして最後に、母は私に「人の為に生きなさい」と言い残しました。
母が癌でなくなったことは偶然とは思えません、将来癌で苦しまれる患者さんのお役に立ちたいと強く望んでいます。
まだまだ未熟の身ではありますが、生涯勉強し続け、人間主義の鍼灸師として一人でも多くの方に鍼灸の素晴らしさを実感していただくため、実千代鍼灸院として立ち精進して参ります。
最後に亡き母の一周忌に、母以上の鍼灸の達人になり人の為の一生を生き抜くことを誓い母の墓前に謹んで合掌いたします。