毎日、毎日、患者さんの肌に触れさせて頂きながら治療に携わっています。
キメの細かい肌から、真っ赤にただれた肌、気の流れが滞って黒ずんだ肌、千差万別ですが、酷いほど、優しく触ってあげたいです。
今の時代、この診察(治療)法がどれほど必要で大切な事でしょうか。
動物達も、傷があったら何度も舌で舐めて癒していきます。ある時は自分で、ある時は親から。
人は手を当てて、肌から痛みを感じて、大丈夫って心で思って、心を通わせて、そして、どんな傷も治していくのです。
これが一切の土台です。土台の上に鍼が効力を発揮してくれます。
だから日々、自分を反省します。
微塵も病んでいる人に傲慢でないようにと。反省だらけです。
作為なく優しい人の掌で治療された人は、本当に幸せです。そんな掌にといつも願います。
たくさんのバラに癒されました
ありがとうございました
雨に濡れたニュードーン
クリストファーマーロー
心配のし過ぎは、どの様な現象を起こすか体感した事ありますか?
心配事は、自分にも、他人にも向けられます。どちらも長引く程、体に大きな影響を与えます。
実は、私も数年ぶりに、人の心配をし過ぎて、お酒も飲んで無いのに、足がフラフラになっていきました。歩きながらも力が入らない…。まさに宙に浮いてる感じです。
これは気が上に上がり過ぎて、下が空虚になった為です。
心配事も、初めは何とかいい様に考えられるのですが、段々、悪い方向に向かい、挙げ句の果てには、あり得ない考えに囚われていきます。このあり得ない考えは、後で振り返ると、かなり笑えますが。
先日、ある患者さんが、自分に向けられた心配事に囚われていました。その姿が今も目に焼き付いて。。。気の利いた言葉もかけられず、今、こうして彼女のためにブログを書いています。
私が経験した様に、過剰な心配は気が上に上がって、大切な土台にあたる下半身がグラついてしまいます。
ただ鍼を信じて。必ず応えてくれるからと伝えたいです。
チャップリンの言葉にこんな名言があります。
「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である。」
何てセンスのある名言でしょう。何があっても笑い飛ばす人生で生きたいです。
芽衣
ジェームズ・ギャルウェイ
診療をしていると、色々不思議な事があります。気の交流は、鍼を持っている時だけではありません。
私の治療所は、小さいお子さんが多く、土曜日などは託児所さながらになります。
その中に、特に一秒たりともジッと出来ないヤンチャがいてます。
子どもに怒ったり、大きな声を出す事は苦手なので、それ以外の方法で…というより、隙があれば、ほとんど一緒に遊んでしまう状態です。多分、スタッフが一番困っているに違いありませんが。。。
しかし、ヤンチャさんは、それが昂じて治療もせず、1時間でも遊んでいます。
先日、意を決してスタッフに「明日からヤンチャ教育するから見てて。お母さんと相談してするから。」と…私の決意は固く、ヤンチャさんが来る朝にも気合い入ってました。
すると、当日、未だかつて無い程、静かに座って遊び、呼ばれたらハイっ!と可愛い返事。チャンとベットに横になる次第…信じられない光景です。
スタッフと唖然としました。次の日も同様です。見るとお母さんがケジメつけて毅然とされてるのです。何も言ってないのに…
私の心がお母さんに通じて、ヤンチャさんにも通じてる。。今までとの違いが大き過ぎて、本当に驚いてしまいました。
本気の心は、光より速く何処までも飛んでいってくれる。すごい気の交流見てしまいました。
ザ・ピルグリム
コント・ドゥ・シャンボード
いい加減は、アクセントや言い方が少し違うだけで色々な意味になります。日本語って本当に難しいって嘆く海外の方のお気持ち察します。
鍼の世界でも、このいい加減がとても大切です。勿論、いい湯加減で使われる所のですが。
加減は、文字通り、加えたり減らしたりの意。鍼の太さ細さ、長さ短さ、深さ浅さ、置鍼時間の長短、鍼の本数等々、これら全てに加減を考える必要があります。人によって状況によって全て違いますので結構大変です。
実はその辺りは、杓子定規的なものが無く、各先生の見立てによって微妙に変わってくるのです。
多分その辺も東洋医学が難しいと感じるところでしょう。
さて、これをどの様に自分も学び、後輩にも指導していくのかが問題になります。
師匠や上手な人の鍼を見学して実際に受けてみる。これが1番近道でしょうか。または日頃から自分の身体で試してみる。感覚センスも必要です。
案外、型にハマった考えより、適当な意味のいい加減の方が体得できたりする時もあります。
東洋医学は、理論と共に感覚の世界も大切にするためです。それもこれもバランスの良さがものを言います。
生体が喜ぶ、生体にOKを出してもらえる様な、いい鍼加減を目指したいです。