(死の瞬間)
晩秋の優しい光と澄んだ空気が忘れられない11月26日、兄からすぐ戻ってくるようにとの連絡を受けた。
全員に見守られ、母の今世での最期は、あまりにも静かだった。
闘病の激しさからか、母の顏は90歳を越える老齢者のように痩せていた。私は母の首にしがみつき頬を合わせ止まらない涙と共に、1時間、いや2時間程離れることが出来なかった。
ふと母の顏をのぞくと、その顏は驚くほど若返り、頬は丸くふくよかに、目と口に本当に優しい笑みを湛えていた。
身体は柔らかく顏はあまりにも艶やかで、兄と何度「え?呼吸してる?」と顏を見合わせたことか。
母の人生の大勝利と病魔に打ち勝った厳たる姿がそこにはあった。
今でも、その顏を思い出すと不思議に優しさが心の底から込み上げて来る。
(がん治療を考える)
不思議にも、母の死後、ガンの患者さんに接する貴重な機会に多くめぐまれている。
皆それぞれに語り切れないほどの思いを抱え、ガンに負けず尊い人生を歩んでおられる。その強靭な精神力には感服しかない。
鍼灸院では有り難いことに、おひとりおひとりの不安な思いや、共に今までの人生を振り返る機会を充分に持つ事が出来る。
この鍼灸治療は、精神を含めた身体全体の治癒力を限りなく高め、暴れるガンを鎮めていく方法である。そして、その患者さんが、ガンと闘えるだけの体力(正気)がどの程度あるのかを検討し治療を進めていく。
生易しいものでは勿論無いが、どこまでも、こちらの正気(生命力)を中心に邪気(ガンなど身体を犯す不要産物)と闘っていくのである。
3大療法の抗がん剤、放射線、摘出手術によって、いかにガンを攻撃するかに集中治療する西洋医学では、そんな流暢な事はいってられないと揶揄されるかもしれない。
しかし、「ガンは消えた。しかし患者さんは亡くなった」との声にはどのように応えていくのか。
それは、人間の全体(精神活動も含む)を診ないで、ガンのみを診ている最たる証拠と言わざるを得ない。
3大療法の使い方に疑問を感じているのは私ひとりではないと確信する。愛してやまない大切なひとりの人間に対して、抗がん剤の分量、時、期間など様々に検討するのは勿論の事、人間の生命を最大限に尊重し、誰人にとっても後悔なくひとりの人間を大切にしていく医療こそ、皆が渇望する、見失ってはならない原点だと感じる。
(使命を感じて)
現在、私の鍼灸の師匠、藤本蓮風先生は、多くのがん患者さんと真っ向から立ち向かわれ、驚くような成果を挙げておられる。
藤本蓮風先生の優れた診察方法である気色診、舌診、腹診、脈診などの総合診断は、患者さんの身体に余計な負担をかけずに本当に多くの情報を得ることが可能である。
この偉大な先生との出会い、そして、母がガンで亡くなった事実。
これらは、「がんにならないよう、しっかり予防していきなさい」そして、「ガンで苦しんでいる人を救っていきなさい」との母が与えてくれた私の使命だと感じてならない。
鍼灸治療の真のすごさは、実は医者も見離した末期の中の末期の患者さんを救う医療であると私は心底信じている。
それは、心(魂)と身体を切り離しては考えられない医療だからこそ可能なのではないか。
医者も手の付けようが無い・・・結局、技術も何も通用しない精神(魂)の領域では、人間自身を診ていく東洋医学こそが本領を発揮できる。
そして、そのために一番試されるのがこちらの人間である事を考えれば厳粛な気持ちならざるを得ない。
母の7回忌、兄は母が待ち望んだ20年来の研究書、鍼灸治療「内経気象学入門」の発刊をもって、そして私はこのコラムを使命への決意に変えて偉大な鍼灸師橋本和に捧げたい。
(生きることの意味)
母は、医者から不可能ですと言われた自宅への帰宅を果たした。皆、入院している人にとって、一番の望みは自宅に帰ることではないかと感じる。
自宅に戻ってきた母からは、喜びと共に死への覚悟を感じる発言もあった。生まれた限り、いつかはどんな人も必ず死ぬ。しかし、若く元気なうちは死を意識して生きる人は少ないのかもしれない。
どのような生き方を日々刻むのか、何を残して死ぬのかということは、高等な精神を保ち、必ず死に直面する人間にとって避けられない課題のはず。
母の同業者への手紙には、「私はただひとりになってもこの予防医学を叫び続けていくことが使命です」
「雑音を気にせず自分らしく生きる納得の人生を選び抜きます」「人は皆、死の準備のために生きている」と、死を見つめての今の生がそこにはあった。
たとえ病気になったとしても、その病気を意味あるものにする。してみせる。そんな決意を私も母の死に直面して誓った。宇宙には何一つ無駄なものは無いのだから。
人生に直面する全ての事も大きな意味があるに違いない。
(人間の魂に触れる)
母が亡くなる2~3日前のこと、母は殆ど会話が出来ない状態だったが、気丈に「ありがとう、ありがとう」と口を動かしていた。
死を予感していた私は、母の一切の心配を無くし、安心させてあげたいと常に心を砕いた。
母の腕をさすっていたある夜、母が「痛みが全く無い・・どんな治療よりあなたの手は効果抜群ね」と嬉しそうだった。
どんな気持ちで人間に触れるのか、その気持ちに微塵の不純物も混じっていないかどうか。全身全霊の無私の精神だけが、相手の魂にまで届くのかもしれない。
私はここに医療の原点を見出したい。
(激痛との闘い)
2004年5月母が亡くなる半年前、私は母と一緒に韓国へ旅行に行った。
韓国ドラマ「ホ・ジュン」に魅せられ、一度行きたいとの母の希望からだった。ホ・ジュンが少女を診察している大きな像の前で一緒に写真を撮った。母はホ・ジュンの優しい眼差しとそのふくよかな手に魅了されていた。
その時既に母の身体はガン性疼痛に蝕まれていた。
韓国から帰った直後、母は仕事も出来ないほど腹部と背中、足の痛みに苦しんだ。
総合病院など様々なところで検査を受けたが、初めに行った病院で心臓の疑いをかけられ、大病院への紹介状も次々と循環器系に回わされた。心臓の負荷試験をし、血液検査をするも何の異常もなく、結局、最後に「繊維筋痛症」との診断を受けた。6月からその痛みは更に激しく、私は兄と一緒に鍼をしたり、冷蔵庫で冷やしたタオルを熱感のある背中や腹部に数分ごとに取り替えた。それは夜中も続き、私の手もひどい水膨れになる程だった。膵臓は胃の後ろにあり、そのすぐ後ろには腹腔神経業という神経の束がある。
母のガンはその神経の束にまで浸潤していた。その痛みはどれほどのものであったか、母の忍耐力は半端ではなかった。
(本当の病魔との闘い)
それから4ヵ月後、近所のクリニックで膵臓ガンであることが分かった。それは亡くなる1ヶ月半前のことだった。
多忙を極めた20年前、急性膵炎で生まれて初めて緊急入院した時、膵臓あたりに影が有ったらしいが再度の検査で見つからずそのまま帰宅していた。
「この膵臓ガンは、約20年前にできた物と思われます。」と医者は言った。
ガンの憎さは、その強烈な痛みと、徐々に容赦なく身体を蝕む増殖能力だ。しかし、人間の精神力はそんな憎きガンさえ微動だにせず、打ち勝つことの出来る強靭さを持っていると私は信じている。
母との病院での1ヶ月半の闘病生活は、ここに書き切れないほど貴重な体験となって私の生命に刻まれた。
ガンは、肝臓、肺、腎臓など全身に広がった。師匠と連携を取りながら兄と懸命に病院で治療した。主治医も西洋医学では手の打ち様がなく、「どんどん鍼をしてあげて下さい」と快く勧めて下さった。
(宇宙のリズムの中で)
病院では凄まじいガンとの闘いと共に、不思議にも弾ける笑いがあった。
母の一言一言は皆の心を通じて笑いへと変わった。
また、何も口にすることが出来なかった母が、私の食事を気にして、「退院したら、頭の良くなるご馳走作ってあげるね」等と話してくれた。実際、家に「頭の良くなる料理」という題の本が置いてあったのには苦笑いだった。
あんなに辛かったのに、なぜあんなに笑いがあったのか。
実は、私は、母のガンが発見されたその日、9月30日から、全てにわたって「宇宙のリズム」の中に入っていくような感じがしていた。
私の「宇宙のリズム」という表現は、何が起こっても全て自然のままに進み、そこには何の不自然さも無い、極論すれば、善への回転・・・本当にそんな感じだった。不謹慎な表現なのかもしれないが、素直な気持ちだった。
その後の母との闘病生活は、今、考えても息苦しくなる程、心身共に私にも苦痛を与えたが、実際、全ての事が母にとって最高の方向に向かっていった。苦悩の中にも、私は、その宇宙のリズムに感謝の気持ちで手を合わせていた。
来月26日は、私の「医療の原点の日」でもある鍼灸師母の7回忌にあたる。この間、母のことは一日も忘れたことはない。それより、母の職場を受け継いだ私は、いつもいつも母と共に治療をさせて頂いている気持ちでいる。
母のおかげで今の私がある事に心から感謝して、この一ヶ月間、鍼灸師母の事を偲び、母の心を残していきたい。
また、その心は私の医療の原点でもある。
今月は私の誕生の月でもあり、もう一度原点に戻って医療に携わりたいとの思いから、コラムを通して自分の決意を固めていきたいと思う。
(人生に妥協なし)
私の母は、昭和一桁生まれ。母の父が福島県で長年鍼灸師をしていたお陰で母は17歳で鍼灸の免許を取得し、非常に厳格な父の下で働いていた。小さい頃から鍼と本を読むことが大好きで、興味はこの2つだけ。姉妹から堅物扱いされるほどだったという。私の知る母は、ながら人間の最たるもの。ラジオで音楽を流しながら、テレビを見ながら、いつもいつも鍼灸の勉強をしていた。テレビを見ながら時に私に、「このラーメン屋さんどうして繁盛してるかわかる?」と質問した。母は食べたことも無いのに「味に妥協がないからよ」と。「ふ~ん・・」と何気なく聞いていたが、自分の仕事に妥協が無い、実は本当に難しいことだ。寝るときも、枕元に師匠のテープを流しながら、師匠の書物を抱きながら寝ていたそんな鍼灸一徹の母だった。
(一貫した態度)
また、母は患者さんに、これ程までにと思うほど心を砕いていた。いつもどうしたら楽にさせてあげられるかを考え続けていたのだろう。患者さんを思うその心と行動は、母の死後、患者さんから教えていただいた。今だに、母の事を思い出すから西宮に近づけない患者さんが何人もおられる。
また、母がいなくなって何回も脳梗塞になり、3年目にやっと来院され、現在脳梗塞で倒れることも無く通ってくださっているご婦人もおられる。
昨年、京都からある男性が来られた。昔の母の患者さんだった。ベットに横になって頂き、しばらくして中に入ると、手で目頭を押さえ涙をこらえておられた。「どうされたんですか?」と聞くと、その男性は「あなたの声がまるで和先生がそこにいるようにそっくりで・・・」と母を思い出し声を詰まらせておられたのだ。母と意気投合していた現在95歳の患者さんは、「和先生がいつもあなたの横に見える」と言われ、私の身体をいつも母の様に心配して下さっている。
死しても尚、なんて幸せな母かとしみじみと思う。
(母の手紙から~自分の生命を見つめて)
6年前、母の遺品を整理していたら、出てくるものは鍼灸に関するノートとメモの山。ダンボールに10箱は優にあった。
覚えられないから書いて書いて書きまくるのよ。とよく言っていた。また、驚いたことに母は、患者さんに本当に沢山の激励の手紙を出し、自分の赤裸々な気持ちも綴っていた。
今、私の手元には患者さんから頂いた懐かしい母の字で綴られた手紙がある。常に、自分の心が清らかかどうかを厳しく自分に問うていた母。ある手紙には、「自分の命の軌道修正をおこないながら生きたい」「私の地球につぶされそうなショックとは、濁った生命を保ちながらまだ変革できないでいること」とあった。60歳を超えてもまだ自分革命に挑戦し続けていた。亡くなる1年前の手紙には、「生命は永遠なるものであるから一生はほんの僅かな時間です。僅かな時を精一杯に生きて次の素晴らしい生を勝ち取るため明日からまた鍼をさせて頂きます」とあった。
まるで映画の名セリフのような言葉を残して・・・・母は患者さんに反対に勇気を頂きながら鍼灸道を歩んでいたのだと感じてならない。