先日、前歯が1本抜けている患者さんにどうしたんですか?
と尋ねると歯槽膿漏で抜け落ちてしまったとの事。
野菜不足、油物や甘いもの、嗜好品の過食で身体に熱と湿をためていると、湿熱体質となり非常に歯槽膿漏や蓄膿症になり易くなる。
湿熱体質の人は「膿(うみ)」がつく病気にかかり易いので要注意。
また、この患者さんは胃潰瘍を患っている人なので特に歯は大事だ。
歯が揃っていないと噛み合わせが悪く更に胃に負担をかけてしまう。
その上、時間に追われ食事を楽しむ習慣が年々薄れていってる現代。
咀嚼(噛むこと)をせず数回で飲み込んでしまっているのでは?
(よく噛んで~)
過食傾向の患者さん(ストレス食い)に、「食べ過ぎないで」というと余計に食べたくなる人が多く、最近は「良く噛んで食べてくださいね」と言葉を変えた。
先日とても興味深い記事が某新聞に掲載されていた。
現代人が1回の食事でかむ回数は、戦前に比べて約6割も減っているらしい。
さかのぼって、弥生時代になると1回の食事で4000回も咀嚼している。
現代は500回以下だった。今は食べる量が多く咀嚼が少ない。
(唾液おそるべし~)
かむ回数が減ることにより大きな問題となるのが「唾液」の減少だ。
日本歯科大学教授の小林義典先生は、「唾液の機能」を下記のように説明している。
唾液は
・酵素で食べ物を消化する。
・歯の汚れを洗い流す。
・食道や胃の粘膜を保護する。
・歯のエナメル質保護や再石灰化を促進する。
・細菌の発育を抑える。
・免疫力を強化する。
・食物の発がん性を減らす。
・活性酸素の消去。
・成長を促すホルモンを分泌する。
歯の汚れの除去や粘膜の傷の修復、歯の補強、抗菌作用や免疫強化。また、ウイルスを直接攻撃してくれる免疫細胞を増やす作用もあると言われている。
発がん性物質も30秒間、唾液に浸されるだけで毒性がほとんど消えるとの事。
唾液にこんなに力があるなんて驚きだ。
このように実は、人間自身の中に様ざまな薬とも言うべき自然治癒力を備えている。
薬製造工場は実は自分の身体にあるというのが東洋医学の考え方だ。
人間は本来は自己防衛出来るように、完璧な形で(能力を含む)生まれてきているはずなのだから。
(糖尿病の予防だよ~)
血糖値を抑えるインスリンの分泌量も、多く噛む人の方が上昇が穏やかで、インスリンを分泌する膵臓(すいぞう)に優しいとの事。
インスリン分泌は年齢とともに衰えて、糖尿病の原因になるため、若いときからインスリンを節約する食事は糖尿病を予防し健康長寿につながると書かれてあった。
糖尿病も東洋医学で言えば、先ほどの歯槽膿漏や蓄膿と同様、体質は湿熱の人がかかりやすい。
どこまでいっても、過食、運動不足、ストレス過多は湿熱を身体にこもらせ多くの病気を作ってしまう。
(頭もよくなるよ~)
更に、噛むと大脳皮質の運動野が活性化され、全身の関節周辺の筋肉が働き、身体が固定されるとの事だ。
歩くことが可能な認知症高齢者のかたの「転倒頻度とかみ合わせの関係」を調べたら、
奥歯の無い人は年に2回以上の転倒が66%に対し、入れ歯でも歯があって噛める状態にすると22%に減少という結果だった。
かみ合わせが良ければ、転倒しそうになった時にふんばりが利き、バランスが保てるという。
ねずみの歯を抜くと学習や記憶能力が低下するという動物実験もされていて、ガムを噛むことで学生のテスト成績が向上したとの結果や、咀嚼力の低下は認知機能に影響を与えている可能性もあるといわれている。
硬いものを食べるほど血流量が多くなるらしい。
西洋医学、東洋医学関わらず医者任せでは本当の健康長寿は保てない。
中年近くなってくると尚のこと。
食べることが多いこの時期、まずは噛むことから習慣を付けていきたいものだ。
先月11月29日、私の2番目の兄が亡くなった。心不全だった。
半眼半口の柔和で精悍な素晴らしい相に、長兄と「今まで本当にありがとう!ご苦労様」と感謝の涙でお別れした。
小さい頃より不器用で繊細な神経を持っていた兄。
今まで一度も怒った顔を見たことがない。
自分の事をバカにする人にさえ笑顔を見せ、優しすぎる程の性格だった。そんな兄が20代前半、バイト先でのお金のトラブルで罪をなすりつけられてから引きこもるようになった。
昼と夜が逆転し、生活のリズムに狂いが生じ、眠剤や抗うつ剤などの服用を始めた。
だんだんと妄想などの症状が出てくるようになり、医者から「統合失調症」と診断された。
(120人にひとり)
この病気は数年前までは精神分裂病といわれていたが、差別的な要素もあり、様々な理由から2002年に統合失調症と英語訳が変更された。
症状は人により様々だが、一般的な症状は、幻覚や幻聴、妄想などの症状が起こり生活能力が失われる。
神経伝達物質のドーパミン過剰による事が原因のひとつとされているが、なぜそうなるのかは未だ解明されていない。
思春期から青年期に発症することが多く、現在120人に1人の割合で罹患するという多さだ。「統合失調症」と「うつ病」は、二大内因性精神病といわれているくらい、ほとんどの精神疾患の患者さんがこのどちらかを患っているのが現実だ。
(自己防衛)
また、精神医学のほうでは、胎児、幼児期に於ける遺伝子損傷が、脳の発達に影響し、成長するにしたがって器官機能に異常をきたし、ホルモンバランスが崩れて発症するのではとの見解も発表されている。
確かに何らかのバランスの崩れである事は間違いないだろうが、長年兄を見てきて、精神のバランスの大きな崩れを、幻聴、妄想の世界に入り込むことで、安定させようとしているのではないかと感じることが多かった。
人間は生きている限り自己防衛のために、本能的にバランスをとろうとしていると東洋医学では考えるからだ。
兄は幸い鍼灸治療で症状は軽く、ここ数年は幻覚、幻聴も殆ど無くなり、笑って平穏に過ごしていた。
(東洋医学的に)
私の鍼灸院にも幻聴、幻覚に悩む人や、躁うつ病のひとも多く来院されている。
純粋すぎて抵抗力が無く、自分に自信が持てず、自分を責めまくる挙句の果てに、精神疾患が発症するのではと患者さんを診ていて感じる。
心と身体を切り離しては考える事ができない様々な疾患。癌や心筋梗塞など身体に来なかったら、精神にくるのは必然だ。
精神的緊張が過度になれば、肝気が高ぶり、胃に熱をもって過食傾向になる。過食になればますます身体の内に熱をこもらせ、ひどくなると心(しん)の臓に熱を持つようになる。
心の蔵に熱を持てば、不眠、イライラ、落ち着かずざわざわする、などの状態が続く。
この悪循環が長年続き、薬漬けになることによって、完全に精神を自分自身で制御できなくなり暴走しだす。
今後ますます増加すると思われる疾患だ。
兄は、長年服用していた何十種類の薬により、心臓自体が弱りきっていた。
数年前から医者からいつ亡くなってもおかしくないと言われていた。
今年、脈は殆ど触れず、手足は氷のように冷たく、顔面も蒼白になっていた。
今度は薬で弱った心の蔵の陽気を高めるため、「陽池」「太白」というツボに兄と交代でお灸をすえて延命させた。
(感謝と尊敬)
兄は他人に危害を加えることも全くなかったので、私にとっては不思議な行動も発言も自然と受け入れることができた。
むしろ、いつも感謝の心でいっぱいだった。
というのは、私や長兄が受けるべき様々な苦しみを、彼は一身に代わりに引き受けてくれているのではといつも感じていたからだ。
また、兄は本当に尊敬すべき人物でもあった。私の親族は、家族、親戚中、鍼灸師か医者の家系。
亡くなった兄だけは無職で入退院の繰り返しという、世間ではまるで見放されたかのような存在だった。
しかし、兄は、私たち兄弟を羨ましがるわけでもなく、そして医者にありがちな「傲慢」の二字とは全く無縁だった。
兄に会うだびごとに、先生といわれている人が錯覚しやすい傲慢な心を反省し、また、本当に立派な人は地位がある人なのか、お金がある人なのか、有名人なのか、どうなのか、という事を考えさせられた。
すべての肩書きを剥ぎ取った生の人間がどうなのか、それこそ問い続けていくべき重要な一点だと感じる。
亡き母や、兄の神々しい安らかな顔をみて、私も使命を果たし切ってこのように生を終わりたいと強く思う。
兄の冥福を心から祈り合掌。
今、滅多にドラマを見ない私が、倉本聰監督の「風のガーデン」というドラマに完全にはまってしまっている。
美しい草花達と静かに流れる時間の中で、深い人間模様をそれぞれの演者が見事に表現している。
主人公は麻酔科医で膵臓癌末期。その父親役はこのドラマを撮り終えた数週間後、肝臓癌で亡くなられた緒方拳さん。
緒方拳さんは家族以外、癌である事を誰にも告げず演じ続けられたらしい。
その一挙手一投足に、透徹した精神力がほとばしり、その中に吸い込まれていくように見入ってしまう。
セリフが無い所でも涙が出てくる。
いかに人生の幕を閉じるかをテーマにしているこのドラマ。
緒方拳さんの心にはどの様な思いが去来していたのだろう。
(深い覚悟で)
肉体、精神共にじわじわと襲ってくる死魔と向き合わざるを得ない末期がん。
この最期をどう選択し、どう生き抜いて終わるのか。
ひとりひとりの考え方やその選択は千差万別だ。
しかし、最期は、いやおうなしに、その人の人生そのものが、そこに集約されてしまうのでは。何と厳粛な場面なのかと感じる。
私は、この4年間で5人のガン末期患者さんの治療に最後まで係わり、荘厳な最期に立ち会わせて頂いた。
患者さんをはじめ、ご家族の方々との深い信頼関係が無かったら、絶対に出来なかった事だった。
診療時間の合間をぬって、自宅に病院にと何時でも出かけ、
自分の生命を削るような深い覚悟で、真剣勝負で何ヶ月も患者さんと向き合った。
弱った身体に鍼も出来ず、ただ、手足をさするだけの時もあった。
(Mさんの最期)
余命数ヶ月と宣告されたMさんは3年寿命を延ばされ、今月21日、何の苦痛もなく眠る様に自宅で亡くなられた。
肝臓癌だった。
亡くなられる少し前まで、何度も私の名前を呼んでお礼の電話を、と言われていたとお聞きした。
遠方の患者さんで十分な事が何も出来なかった事に、ただ申し訳なさでいっぱいになった。
しかし、駆けつけると、本当に安らかな、柔和で美しいお顔、笑顔さえ浮かべておられた。
生きて生き抜かれたMさんの、癌に打ち勝った姿に感動がこみ上げてきた。
ある民生員の方も、「何人も亡くなった人を見てきましたが、こんなに顔が柔和に変わった人は見た事がないです。これは、本当に満足のお顔ですよ。良かったですね」とご家族に言われていた言葉がとても印象的だった。
(誰が主役?)
先日、新聞に桜井隆さんという「ホームホスピス」医師の記事が目にとまった。
ホームホスピスとは主に末期がん患者の緩和ケアを在宅で行う終末医療の形をいう。
桜井医師は「大学病院の勤務医だったころ、死は「医の敗北」ととらえていました。医者は延命に手を尽くし、家族に一時退室を求めることもある。主役は医者でした。しかし、自宅でなら、本人と家族が主役です」と言われていた。名言だと思う。
人口動態統計(2006年)によると、亡くなった人の82.3%は病院・診療所で、自宅は12.2%。
しかし、1970年ごろまでは、自宅での死亡が半数以上を占めていた。それが、90年以降になると病院・診療所での死亡が70%を超えてしまっている。
考えさせられることが多い結果だ。
(人間の感情を忘れないで)
私の尊敬してやまない聖路加病院の日野原重明先生はある著書の中で、杉並区の医師会でおこなった「先生は最後の時はどこで死にたいか」とのアンケート調査の結果を紹介されていた。
「その時にならないと分からない」という四割を除いて、残りの60%の医師のうちの四分の三は、「できれば家で死にたい」との答えだった。
また、癌末期になった時、「どの程度の治療をしてほしいか」との回答は治療を最小限度にとどめて欲しいという医師が約三分の一だったという。
日野原先生は、「いつも医師は、局部的なもの、客観的なものと同時に、患者が悩んでいる主観的なもののデータを押さえて、理解する事をしなければならない」と言われている。
人間を自分と同じ悩める感情のある人間として接する事の大事さ。今、あまりにも当たり前な事が忘れられている様に感じる。
(顔の見える医療を)
友人が、先日友人医師に、「患者の生き死にはルーチンワーク(日常決まった事の意)?」って聞くと、「うん、ルーチン。感情は全く無い」との返事だったという。
勿論、いちいち嘆き悲しんでいたら仕事にはならないし、客観的でないと判断も狂うという事だろうが・・・・・
オートマティカルな顔の見えない医療=臓器しか診ていない医療を続けていて本当にいいのだろうかと疑問に思う。
私の母の膵臓癌を発見して下さったのは、近所の開業医だった。
先生とは数日しか接する機会はなかったが、母はとても信頼していた。
母が亡くなってしばらくして、道でその先生に偶然出会った。
先生は「大変でしたね。お葬式に行きたかったのですが、分からなくて・・・」と自宅にお線香をあげに来てくださった。
何を祈られていたかは分からないが、本当に長い間、手を合わせてくださった事は一生涯忘れられない。
一番大事な最後を、一番人間らしく終えるためには、素直な人間の感情を持った手で、その心で接してあげる、そんな最後が迎えられる人こそ最高に幸せ者だと思う。
先日、久しぶりに亡き母の夢を見た。
ベージュのスーツをかっこよくきめて、美しい木々に囲まれたペンションの一室で鍼灸の講義をしていた。
本当に元気そうな姿に私は「やっぱり、お母さん死んでなかったんだ」と心の中で喜んでいた。
母が膵臓癌で亡くなって今日26日でまる4年になる。
一日たりとも母の事を考えないことはなかった4年間だった。
毎日感謝しない日は一日もない4年間でもあった。
今私は、母が癌と闘ったという事実に感謝し尊敬の念でいっぱいだ。
母の膵臓癌は半年間、どこの病院に行っても発見されなかった。
今となってはそれで良かったと心から思える。膵臓癌(特に膵尾癌)は発見された時は手遅れになっている事が多いらしく、もし、半年前に発見されていたら、その間ベットに縛り付けられていた事を思うと、母は旅行に行ったり、福島県の祖母や姉妹に会いに行ったり出来た。
(一生言えない言葉)
母が入院したのは実質1ヶ月少しだった。入院中、こんな会話があった。
「先生、癌って本当に痛いですよ」と主治医の先生に伝えた。
「よく分かりますよ」と先生。「先生、うっそ、これは、なった人にしか分からないですよ・・・・・でも先生、絶対癌になっちゃだめよ」と母。
今でも私は患者さんの訴えに「そうですか」「大変でしたね」とは言えても「よく分かりますよ」とは言えない。たぶん一生言えないかもしれない。
(息が吸えない苦しさ)
2年前、母が一度行ってみたいと言っていた中国は四川省にある、世界遺産の「九賽溝」という標高3500メートル級の山へ登りに行った。
山間にあるあまりにも美しく澄んだ水面は、一生忘れられない程の見事なエメラルドグリーンだった。
しかし、少し歩いたら息が苦しくなって中々前に進めなかった。
酸素ボンベを使用している人も多かったが、私は持たずに登った。
息が吸えない苦しさを体験する為にもこの山を選んだからだ。
本当に想像を超える苦しさで、少し歩いては休憩しながら登っていった。
母の癌は肺にも転移していたので、何度かひどい呼吸困難に直面した。
今でも急激に酸素量が減った時の母の苦しさを考えただけで、本当に胸が苦しくなる。
(後悔のない言葉を)
膵癌が胆管を圧迫していたので母は食事を取ることが出来なかった。胆汁が溢れてきて嘔吐してしまうからだ。
「おうどんのお汁でもだめですか?」と聞くと、先生は「美味しいと感じたら胆汁がでるので・・・」と、過酷な返事だった。
でも母は病室で看病する私たちに「しっかり食事を取りなさい」と勧めた。
ある日、母は私に「人間1ヶ月何も食べれなかったらどうなると思う?」と。
私はその言葉が辛すぎて「大丈夫だよ~1ヶ月くらい」と冗談で答えた。
「残酷ね、それはつらいよ」の母の返事に胸が詰まって何も言えなくなった。
今でも母の写真の前に真っ白なご飯をてんこ盛りにしてお供えしている。
苦しんでいる人に対して、何て声をかけるのか。
仕事上、日常直面する大きな問題だ。
それはテクニックでもなく、言葉の上手下手でもない。
母のおかげで、後悔のない一言が言える人間に成長したいと日々思う。
(幸せな出発)
私にとっては、母と一緒に乗り越えた癌との闘いがあったから、今医療の現場に立たせて頂く資格を得たように感じる。
病魔との闘いは、あまりにも壮絶で、人の死の瞬間程、深く、激しく、尊い瞬間はない事を、一番大切な人を亡くして実感した。
母が亡くなる数日前、私は夜中病室で、母の腕を祈りながらさすっていた。
母は、「気持ちいい。痛みが全然無いよ。どんな薬より一番良く効くね」と本当にうれしそうだった。
亡くなる前日、母へ感謝の言葉を伝えると、半昏睡状態の母が大きくうなずいて、もごもご口を動かした。言葉にならなかったけど、私には「ありがとう!」と聞こえた。
入院してから感謝感謝の連続だった母は、なんて幸せな今世の締めくくりだったかと思う。
今あれから4年が経った。
まだまだ母に守られていると感じながらも、いつ、どこで、また母に出会うか、今私は本気でワクワクしている。
死は次の生の出発だから。姿は違ってもまた同じ母の生命で生まれ変わってくる。
鍼を見せたら目がキラキラ輝く。きっとそんな人に出会うと信じている。私が生きている間に。
(食卓の崩壊)
先日、某新聞の一面に医食同源を主張する私にとっては、本当に驚きの記事が掲載されていた。
“お金と時間をかけたくない”との事で、ある大学教授が朝、昼、晩の三度の食事を1日300粒、約50種類のサプリメントでまかなっているという。
美味しいものを食べたいという欲求がなく、空腹感はカップめんとスナック菓子で満たすとの事。
また、食事写真調査「にっぽんの食卓」でも、カップめん、パン、飲み物がパソコンの前に置かれた光景が複数寄せられたらしい。
なぜここまで世界一の長寿食と言われてきた日本の食生活が崩れてきたのだろう。
本来、食を楽しむというのは心のリラックスにつながるのでは?
食事を目で見て楽しみ、臭いを楽しみ、味を楽しみ、食感を楽しみ、そして会話を楽しむ。これが本来の食のあり方ではなかったのか?
かつてアメリカに少し住んでいた時、一番のコミュニケーションの場は食事だったように思う。各国の食文化を知り、一緒に多国籍の料理を食す事によって、お互いの距離がグンと近くなった。食こそ人と人を自然に結ぶ最高に人間らしい行為のように感じる。
(食の乱れは精神の乱れ)
精神的に安定している時は、過食にもならず、少食にもならず食生活も安定する。
また、食事のバランスが良いと精神も安定するように感じる。
様々な患者さんの問診で食事の事をお聞きすると、つくづく「食生活と精神状態」には深い関係がある事を実感する。
ストレス食いと言われるように、満たされない事や緊張しすぎた時などは、ひどく過食になる傾向が多く見られる。
また、緊張状態が続くと必ずと言っていいほど、特に女性は甘い物に手が出る。最近は男性も?
甘い物は心身ともに緊張を緩める作用があるからだ。
その最たる物はチョコレートだ。イライラが募っているところ、月経前と重なったら、チョコレートを数枚ぺろりと平らげてしまう女性もかなり多くいる。
(月経前の肝の高ぶり)
月経前は肝が高ぶる。肝が高ぶるとは、その度合いは人によるが、簡単に言うとヒステリックになるということ。
人にあたったり、物にあたったり、やたら綺麗好きになったり、過食になったりなど精神の不安定がみられる。
過食は肝の高ぶりを下げようとする為だ。(食べ物を口~食道~胃へと下に降ろすので上に上がった肝の気が下がる)
また、うつ病で来院される患者さんは100%と言っていいほど、油物や肉食に食事が偏ったり、食べ過ぎたり食べなかったり、お菓子でお腹を満たしたりと、食生活の大きな乱れが男女ともに見られる。
食の乱れは生活の乱れ、生活の乱れは精神の乱れと言わざるを得ない状況だ。
(過食症と拒食症)
かつて、ある若い綺麗な患者さんがこられた。常に外では緊張していて、家に帰ってきたら発狂するというのか悩みだった。
発狂というのは本当で、家中の物を投げて破壊するというのだ。
自分でも止められないらしい。
食事を聞くと、痩せたくて拒食症になった後、痩せるだけ痩せたら、急に過食症に変貌したとの事。拒食症の時はうつ的になり、過食症になってから攻撃的になったという。
「食事はどんな物を好んで食べていた?」と聞くと、過食になってから「今迄、あまり食べなかった肉食、油物、甘いものばかり食べてます」という。運動も全くしていない。
自然界をみても草食動物はおとなしく、肉食動物はどう猛だが、思いっきり運動している。
彼女が発狂するのも無理はない。過ストレス、肉食、過食、運動無しなのだから。
発散できずにたまった過剰エネルギーが、爆発する。
脈や舌の赤さ、各種つぼなど見ると、肝の高ぶりが顕著に全てに現れていた。
この方は何回か鍼に通う中、今では全く発狂も無くなり完治された。
最近もこの様な患者さんがよく来られる。
(自分を褒めて)
食の乱れは精神の乱れと簡単に言っても、多くは、バックに家族の愛情などの問題が大きく関与してくるので複雑なものが多い。
過食症もいろいろあるが、食べるだけ食べたら、指を突っ込んで吐く行為をする。
これは、満たされない感情を食で満たし、そして自分のトラウマとなっている思いを吐き出す行為だと考える。精神のバランスをとるための一種の自己防衛なのだ。
これは昔、友人が過食症になった時、とことん付き合って学んだ。
胃は荒れて可愛そうだけど、精神を安定させる為にはこの行為が必要だった、というより、過食症になるしかその時は方法が無かったからしていたのだと思う。
自己否定を繰り返す友人に、肯定で返す私。何年もかかったが、自分を受け入れ肯定できた時に、過食症は無くなった。
生き物は全て、常に生きよう、生きようとしている。だからこそ、バランスが崩れたら常に戻そう戻そうとしている。生きようとしている者にとって、自己否定こそ最大の敵と感じる。一気に身体と精神のバランスを大きく崩すからだ。
一度、自分を上から客観的にみて、「ああ、何て健気に一生懸命に生きてるのか」と褒めてあげて欲しい。