(本当に生きる)
今親友のお母さんが癌と全力で闘っている。
大腸から肝、肺、腎臓など全身に広がってしまった。
数日前まで、自宅で家族と共に懸命に闘っていたが入院することになった。
実際は懸命という一言では語りつくすことの出来ないほどの戦いだ。
生きる力の究極のエネルギーをそのお母さんからビンビン感じる。
「本当に生きる」ということを日々教えていただいている。
(ピースサイン)
入院直前、自宅でお母さんのお顔をジーっと見ていたら時折深い呼吸をして眉間にしわを寄せておられた。
私に気ずいて目を開けるとにっこり笑顔だ。
その後数日振りに便が出て、友人と大漁だ~大漁だ~!と喜んだ。
「お母さん!沢山出たよ。よかったねよかったね!」というと私たちにピースサインで周りを喜ばせてくれた。
便通があること、コップを持つこと、水を飲むこと、足を動かすこと、小さなひとつひとつ全てが大勝利のピースサインだ。
(友の姿)
赤ちゃんの時のことは記憶に無いけど、愛情たっぷりで育ててくれたお母さん。
覚えて無くても母と聞くだけで泣けてくる。
私も大きくなっても母の大地に安心して生きてきた。母だけは永遠に死なないと思えるほどの安定した大地だ。
その母の力になれること以上の幸せはない、尊いことはないと友の姿をみていて感じる。
そんな幸せを与えてくれて最大の親孝行の機会を与えてくれてお母さんありがとう!
(ガンを攻撃せよ?)
先日、患者さんの身内の方がガン末期で医者から余命宣告を受けたと涙ながらに語られていた。
聞くと、腎臓ガンから6ヵ月後両肺へ転移、更に肩にもガンが見つかった。
3回の大手術を受け、抗がん剤治療とモルヒネを続けペイン治療へ。それも薬量を間違い10倍量を投与され全身硬直状態に。更に胸水を多量に抜き、放射線治療で追い討ちをかけた途端、急激に体力が落ち、体重も10kg減、食欲無く、歩行困難になったところで余命宣告を受け自宅に戻ってこられた。すさまじいばかりの攻撃的な治療だ。
本人は息絶え絶えになり苦しみ、家族は泣きじゃくる。
このような現実が今どれ程、日々繰り返されていることか。
(忘れられない母の顔)
私はこの仕事に就いて亡き母のことを一瞬も忘れたことはない。
母のすい臓ガンを発見してくれたのは近所の町医者だった。
「お母さんにガンの告知をされますか?」との先生の言葉に、様々な苦労を重ねてきた母のこと。大丈夫と私は「はい」と答えた。
先生は「待ってください。一回限りの人生です慎重にいきましょう。今日は詳しく検査するために入院すると言う事に」と言われた。
先生の説明後ドアを開けたら、母の見たことも無いような不安そうな顔が飛び込んできた。
私は一瞬にして先生に心から感謝した。
(最低な№1)
3日後、母は入院するためガン画像をもって紹介された病院へ行った。
そこで最初に出会った先生は院では№1といわれる外科医だった。
その№1は車椅子でうな垂れている母の前で画像を見ながら「うわ~!!大きいガンですな~!」と大声で叫んだ。
思わず私は№1の足を思い切り踏みつけ耳元で「まだ母にいってません」と小声で言った。
大きなガンを切りごたえでもあるかの様な№1の言葉。
バカな発言に怒り心頭。病院でも看護士さんも困っているデリカシーの無さナンバー1らしかった。
母の主治医はその№1ではなく若いいい先生だった。余計な治療はほとんどせず、どんどん鍼治療をしてあげてくださいと私たちの意見をよく聞いてくれた。
母にガンを告知する時も多忙な主治医を捕まえては手紙などでもどれ程話し合いをしたことか。それはそれはここまでするかという程、宣告に対して西洋医学の治療に対して慎重に進めていった。
(暗闇の中の光)
ガンを宣告しないと治療が思うように出来ない、治療を覚悟してもらうためにも本人には言ったほうがいい等など、ガン宣告に医者の言い分もあるとは思う。
しかし、医者はメスがなくても人を天国にも地獄にも行かせることが出来るといっても過言ではないだろう。重症であれば尚の事。
先日も四川省の地震で瓦礫の中に閉じ込められていた女性が170時間ぶりに救出されたらしい。
彼女のフィアンセが発見し、ずっと「結婚しよう!結婚式は中国式がいい?」などなど声をかけ続けたとのことだった。
鍼の師匠、藤本蓮風先生は患者さんに対し「明かりをつけようと思うのではなく、暗闇に一点の光を与えていけるかが大事だ」といわれたことがある。
たとえ死期が近づいていたとしても、人間には計り知れない人智を超えた生命力がある。
この生命力を信じ切れるか、これが問われているのは実は術者自身だ。
一人の生命は地球より重いと尊び、生命力を信じ抜くことが出来たとき患者さんに一条の光=希望を与えていけるのではと感じる。
「症状はあるのに?」
先日、60代の女性で右半身の手足がしびれて右手に力が入らず、右足だけスリッパが履きにくいとの事で来院された。
ろれつは大丈夫ですか?とお聞きすると、症状と同時にしゃべりにくくなったとの事。血圧も高め、糖尿病を持病にもっておられた。
すぐ左脳の脳梗塞を心配した。医者に徹底的にMRIの検査を受けたら全く異常なしと言われ帰されたらしい。
症状はあるのに検査結果に出なかったら異常なし。ひどい時は心療内科を勧められる例は少なくない。
多くの患者さんを診ていたら必ずそこには何らかの法則が見つかるはずなのに・・・・
その法則こそ病の原因の大きなヒントとなるはず。
いずれにしても検査結果には異常が無くても様々な苦痛を訴えてこられる患者さんの何と多いことか。
「原因と結果」
様々背景を聞いてみると患者さんはお寺の奥様。常に来客で気が休まることなく、その上お供えの甘いものを日常大食されていた。
更に右足が出にくくなったため今迄していた散歩を中止されたらしい。
悪循環は悪循環を呼ぶとはこのこと。ほっておいたらいつ血管が詰まってもおかしくない。
さて、身体を診る事に。私たちの診断の中心は体表観察(前回のコラムで紹介)なのでツボを探りながら「気のひずみ」(全体のアンバランス)を見つける。またそれは診断即治療点となっていく。この患者さんの場合、渋脈というギシギシした脈、皮膚の細絡の状態(細かいみみずが這ったような血管)舌下静脈の怒脹の状態(舌の裏に出ている黒っぽい静脈)などから血液の流れの悪さが察知できた。
また、血液に関するツボに明らかに反応が出ていた。
更に、神経を長きに渡って使っているため非常に硬くなっているか、かなり緩んでしまっているツボが多く診られた。
私はいつもこれらのツボに合掌したくなる。検査には出なかったとしても必ずツボは病の予兆を教えてくれるからだ。
「細分化と全体」
鍼の師匠は常々「検査結果にのみ目を向けて薬の過剰投与をするところに更なる難病(治し難い病)が生まれる。なぜそのような症状がでたのか必ず本人の生活習慣の中に問題を解く鍵がある。そこを見つめ原因を究明せずして何かを施すのは治療ではない。患者を増やすだけだ」と喝破される。全く同感だ。
東洋医学は機械論ではなく生気論の立場で身体全体の「気のひずみ」を発見することを最重要視する。それも直接人間の手でもって。なんてソフトパワー(自然の道理)なのか。今求められている医療の原点がそこにはあると感じる。
とは言っても西洋医学が人間を細分化する事によって様々な発見をし貢献して来た事も事実だ。
人間の身体を細分化しミクロの世界まで追及を続ける西洋医学と人間を小宇宙ととらえ全体のバランスを重視する東洋医学。
どちらも大切。なくてはならないと感じる。
しかし私は、21世紀は東洋医学の考え方を主体とし西洋医学が補助的になっていってこそ真に健康な世紀になると確信している。
人間の精神と身体は気っても切れない関係にあって、かつ本当にデリケートな存在だからこそ。
バランスの美しさ
私は小さい頃から宇宙の神秘さに魅了されているひとりだ。自転と公転、太陽と地球の絶妙なる距離など人間の技でない宇宙の妙なるバランス。もっと身近でいえば自然のバランス=調和の美しさにため息がでることばかりだ。
最近お庭で咲きましたと、牡丹の大輪やアネモネ、フリージアなどのお花を頂き、その色の美しさ、弁と花びらや花びらと葉っぱ等のコンビネーションの美しさ、個性豊かな香りなど全体の調和の見事さに自然以上に優れたバランスはないと感じる。海の中や空の変化する色も然りだ。
感動し合掌したくなることが本当に身近にたくさん有る。
そしてそのような自然のバランスの美しさに魅了されながら人間もまた何という素晴らしいバランスの下に構成されているのかと合掌したくなる思いにかられる。
バランスの乱れ
東洋医学はバランスを最重要視する。バランスの乱れを見つけることが治療につながっていくからだ。それは身体のみでなく精神のバランスも一体としてとらえるところに特徴がある。
自分自身の日常でも「食の乱れは精神の乱れ。精神の乱れは身体の乱れ」と感じることが多い。必要以上に過食になってしまう時は要注意という感じだ。
東洋医学では、そのバランスの乱れを顔色、ツボ、舌、お腹、脈などを診て触って感じ取る。また患者さんの人生や生活習慣も語りつくせないが少し振り返って聞かせていただく。
だから同じような頭痛の症状で来られたとしても、人によりそのバランスの乱れが違うので治療のために選ぶツボも違ってくる。また反対に違う症状でも同じツボを使う時も多い。
いづれにしても、こちらが体調を崩しバランスが乱れていたら当然バランスの乱れを正確に感じ取れない。純粋な気持ちで治療に当たることが本当に大事だと感じる。
上記以外にも心神のバランスの乱れ具合を診るところがある。患者さんの筆跡だ。
どの様な字体なのか、小さいのか大きいのか、力強いか弱いか、自分の名前と住所のバランスや数字や○のつけ方までみる。人間は無意識に様々なところで自分を表現しているものだ。また私はドアの開け方、また服の色まで診てしまう。
実は電話の声、話し方などからすでにもう治療モードになってしまっている。
その人をチェックするというのではなく、自然とその人のバランスがどの様な状態なのかを感じようとしてしまうのだ。
最高のバランスは?
私の鍼の師匠は常々、「だまってその人の近くに傍に行くと何で悩んでるかを感じ取れるものだ」と言われる。またその人自信が発している「気」を感じることができる。
これは人間そのものを尊敬し愛してこそ出来る感性だと思う。
治療の根底には元来大調和のとれた人間そのものを尊敬し、そして謙虚になぜそのバランスを崩してしまったのかを見つけ検討し分析していく。
バランスの乱れを「診させて頂く」という気持ちを忘れたら大自然のバランスから自分は完全に外れていってしまうと感じる。
この尊敬と謙虚さ、言葉を変えたら感謝と恩返しの精神の中に最高のバランスの妙があるように思う。
実は今、最も感謝しないといけないのは一番身近に私を助けてくれている私のスタッフだ。私の治療がやり易い様に必死で治療室全体のバランスを取ってくれている。忙しければ忙しいほど青い顔になっていく彼女をみて(青い顔は肝気の高ぶり)心の底から合掌する。本当にありがとう!
・気の存在
先日、久しぶりに東京で女性鍼灸師として活躍している親友と出合った。
私と彼女の共通点は多くあるが何と言っても「鍼灸が大好き」という純粋な気持ちだ。
出てくるのは鍼の話ばかり。時間を忘れて話し込んでしまう。
「気が合う」というのはこのことか。
「気」は目には見えないが現前と存在すると確信する。
例えは変かもしれないが、猫のしっぽを踏んだら「ふー!!」っと怒って猫の毛が逆立つ。
これは怒りによって「気」が上に揚がった状態だ。
私の友人も怒っている時ふと見ると腕の産毛が立っていた。東洋医学的には「肝気が揚がる」という。
反対に驚いて本当に腰が抜けてしまった人を目の前で見た事があるがこれは「気」が下がった状態。現代人は緊張や怒り等で肝気があがりっぱなしで、腎や腰といった下の方が弱い。つまり逆三角形型になっている人が多い。上に気が上がり不安定な状態だ。回転性のめまいや突発性難聴、高音の耳鳴りなども簡単に言えば緊張や怒りによって肝気が高ぶった為に起こるといえる。
話は反れたが日常語の中にも「気」のつく言葉が多く使われている。
元気、病気、やる気、気楽、気持ち、気合い、勇気、気長、無邪気、殺気、短気、陽気、陰気、気性、気苦労、気が抜ける、気が置けない、気を引く、気を使うなどなど・・・
東洋医学では「気」は生命活動のエネルギー源とされている。(気は気でも正気というが)
臓腑や器官の生命維持の根元でその機能活動の原動力といわれている。
・どこにでも有る気
気は有情のみでなく感情の無い非情にも感じる。ペンひとつとっても大事にしているものには何ともいえない温かさがある。
今の私の鍼灸院は、亡き母が30年間鍼灸治療をしてきた場所で、患者さんを想う母の気、楽になった事への感謝と喜びの気で充満しているようだ。
母と共に働いている時にはあまり感じなかったが、自分が携わるようになってから驚くほどそれらの気が流れているのを感じて、まるで母と一緒に鍼灸院にいている感覚にいつもなる。
患者さんが「ここに来ただけで癒される、気持ちが良くなる」といって下さる度に素晴らしい気を残してくれた母に感謝感謝の思いで合掌している。
どれ程母は鍼灸を愛していたか、今、日々鍼のすごさを患者さんから教えていただき感動している。
・驚愕の名人
奈良におられる私の鍼灸の師、藤本蓮風先生の治療所を先日も見学にいった。
少々黒ずんだ顔のお腹の膨らんだ患者さんがしんどそうに入ってこられた。
彼女は腹膜ガンの患者さんで尿が出にくく腹水でお腹が腫れているのだった。
私は先生の後ろについて見学させていただいた。
左手で患者さんの脈を診ながら、右手に鍼を持つ先生。一本一本が真剣勝負、いつも鍼を刺される姿を見ながら「これは効いている!!」と私が感じる程の誠の一本だ。
しかしこの患者さんには鍼は刺されなかった。というより刺さなくてよかった。
鍼を翳(かざ)した、その瞬間「お、脈が変化したぞ。刺さなくても気が動く時がある」といわれ、そこで治療は終了した。ほんの数秒の治療だった。
信じられないかもしれないが現実に鍼は本当にすごい!
その患者さんは直後「先生、おトイレに行ってきます!」と何ともうれしそうな顔で出て行かれた。
その足取りのなんと軽かったことか。
こんなに身近に本当の鍼のすごさを教えて下さる師の存在への恩返しは、「どんどん治して皆で不可能を可能にしような!」の師の言葉を実現することしかない。