(乗馬から学ぶ)
ここ1~2年、鍼灸の師匠に勧められ乗馬に挑戦している。
人間の体温より少し高い馬の温かさや、バランス感覚を養うなど、健康にはもってこいとの事。動物はかわいいものの、触れることが苦手な私にとって、この挑戦は決死の覚悟だった。
長~い顔に、ドデカイ目・・・最近やっと2人きり(馬と私)になっても怖さがなくなってきた。そんな矢先の夕食時、「はやく!」といわんばかりに馬が私の肩をがぶり!
草食動物なのであまり痛くはないものの・・・また数日前、おそるおそる馬に近づくと、いつもはおとなしい馬が、突然目をむいて振り向き、私を威嚇する。
馬は本来おとなしく、そして臆病な動物。
故に、特に敏感に人間の「心」、「気」を察知するのかもしれない。
再度、こわごわ横を通り過ぎた。また馬が威嚇。触ってもいないのに怖いと意識しただけで馬に完全に気持ちを読み取られてしまう。
怖いという「気」がこんなに通じてしまうなんて、ある面「すごいな~」と感心した。
(怖がるツボ)
治療現場でも時々こんなことがある。背中に鍼をしようと、鍼先を向けただけで患者さんのツボがビクッと動く時がある。
患者さんは下向きで寝ているので鍼を全く見ていない。
なのに、鍼を向けただけでツボが動くのだ。
これは、患者さんのストレス発散が全くできておらず過剰になり、神経過敏になり過ぎたため起こる。ツボもカチカチ、緩みが全く無くなった状態で、東洋医学では邪気(じゃき)が実(過剰)と表現する。
腹部を触ると大人なのに異常にくすぐったかったり、時には触れることすらできない人もいる。
日常でも、神経が立ちすぎてピリピリしている人の近くに寄っただけで、こっちまでぴりぴりしてしまう事があるように、邪気が盛んになり過ぎ、発散できていないと、このような反応を起こしたりする。
ツボがビクッと動くのは、その邪気が鍼を怖がって逃げている状態。といっても信じてもらえるかどうか。しかし、事実なのだ。よって、このような患者さんに鍼をする時は、のんびりゆっくりせず鍼先を初めはツボの方に向けず、素早く邪気を捕まえるように硬結したツボに鍼をするようにしている。邪気との戦いといっていい。
治療後、過敏な反応はまったく無くなり、患者さん自身が驚いている程だ。
(精神とツボのバランス)
ツボの状態は精神の状態と比例する。つまり、日常生活において、精神的にも余裕がなくイライラしがちな状態になっていると、ツボもカチカチに硬結してしまう。
また、カチカチに固まったツボを長く放置しておけば、今度は反対に弛緩(ゆるみ)の方に向かっていく場合がある。ツボが緩みすぎている人は、「正気」が弱っていると表現し、そんな人の側に寄ると、ヒヤッとして何かが吸い取られる感じがする。
このような「邪気が実」の反対は、「正気が虚」という。
硬すぎず、緩みすぎず、ツボにおいても全ては絶妙なバランスこそ重要と考える。
それは即、精神のバランスにも通じるからだ。
精神のバランスを崩しているからこそ、身体にその症状が表れる。心身不二だ。(心と身体は2つばらばらのものではなく、密接に繋がっているということ)
鬱症状や反対にイライラし過ぎになるなど精神のバランスを崩したときは、鍼灸で身体から治療していくと、自然と精神のバランスもとれていく。
それがよい方向に向かっているかどうかは、本人は基より、ひとつはツボにその状態を尋ねてみるとよく分かる。
(心持ちの大事)
いずれにしても、治療する側の精神状態のバランスがいかにとれているかはとても重要。
治療現場にいったん立ったなら、尚のこと。こちらの精神がぶれていたら患者さんの精神のブレ、身体のバランスの乱れを正確に受け止めることは到底できない。
鍼灸の師匠、藤本蓮風先生は、鍼を持って患者さんを診させて頂くときは、「心持ちの大事といって雑念、邪念のない素直な気持ちで接していきなさい」といつもいわれる。
例えば、「盗人が井戸に落ちかけた子供を見て、我を忘れて助ける。痛いと思うとき、知らず知らずのうちに痛むところに手がいっている。なんとか楽になってほしいという一念でわれを忘れて治療するとき、「何か」が出てくる」という。
また、その「何か」とは、「そのような心で接していくと、本来人間が持っている治療家の本来的自我(仏性)が輝く」といわれている。これは、師匠が著した「弁釈鍼道秘訣集」という、ある意味鍼灸の哲学書とも言うべき著作の中に書かれてあることだ。
こちらの人間的な精進が不可欠な東洋医学(すべての医療でもいえるのでは?)
まだまだ反省することばかり。心で思ったことが即、相手に通じてしまう(それは広くいえば、距離の近さ遠さも関係ないのでは)目には見えない気が通じてしまう、この不思議な事実を謙虚に受け止め、縁深き患者さんの元来持っている本来的自我=最高の人間性さえも光り輝いていくように、技術、人格ともに自分磨きを続けていきたい。
本来人間は完全無欠なものと捉える東洋医学の哲学を基盤において。
(志の大きさ)
この年末年始は、本当に沢山の友人知人と会い友好を深める多くの機会を持てた。
よき友人との対話程、人生を豊かにしてくれるものは無い。
感謝の思いでいっぱいだ。
その中で、アメリカに滞在し核不拡散、軍縮関係の研究機関に勤務している友人からは特に大きな触発を受けた。
彼女とは帰国するたびに会う機会を持たせて頂いているが、彼女の夢を実現しようと語る強い意志、輝く眼、現実を見据えた英知など等、一言一言に心から感動を覚えた。
自分自身も様々な悩みを抱えながらも、オバマ大統領と同じ意志、「核の無い世界」実現に向け人生をかけて日々闘っている彼女。その志の大きさに彼女の成長の鍵があるのだと感じた。
今年の彼女は眩しいほど成長していた。
(人間への信頼)
立場は全く違うが、対話の中で私たちの共通の認識は、「人間への信頼」こそ、何かを成す為に最も大事なことではないかということだった。
それは「対話」でしか本当には得られないのではと感じる。
相手を信頼するからこそ「対話」が生まれる。
不信や偏見からは「対話」という行為は生まれない。
自分の先入観や思い込みなどでは無い「対話」を大事にしている人を私は心から尊敬する。
対話によって、思ってもみなかった相手の良さや心の底の思いを知り、尊敬の念や相手に対する温かい心が湧いてくる。
「対話」は、お互いが最も優しくなれる最も人間らしい行為ではないか。
「対話」は人間だけに与えられた知的レベルの最高峰ではないか。
(対話は癒し)
ありがたいことに、東洋医学では人間の心と身体を切っても切れない関係として重視している。
つまり患者さんが心の中で思っている事や患者さんの性格を知ることによって、その人がそれによってどのような生活環境を作っているかを知ることができる。
そしてそれが、まさに病気の原因、または病気治しの大きなヒントとなってくる。
つまり、患者さんとの対話無くして、本当の治癒は無いといっても過言ではないのではないか。
ある本の中で、カナダ・モントリオール大学前学長のシマー博士が語っておられた印象深い言葉があった。「医師と患者の間に対話が存在すること自体が、癒しの力となります。
しかし、現実の医療の現場では、医療機器が主要な位置を占め、医師と患者の人間的な交流が軽視されているのです」と。
多くの患者さんが思い当たる事実ではないか。
また、シマー博士の言葉から、ある医者が「診察中、患者さんの顔を見ないで、電子カルテを記入するために、パソコンの画面ばかりを見ている医師がいました。たまりかねた患者さんが「先生は顔色ひとつ診てくれないじゃないですか」と文句を言った。医師は、しょうがないなという顔つきで、聴診器を手に患者さんの胸を診ようとした。しかし、手にしたのは、パソコンのマウスでした」という、苦笑いしてしまう話があった。
(人間力)
西洋医学の心ある多くの医師も、「まず患者さんとの間に、人間としての信頼関係を築くことが大事。それでこそ、治療も確かな効果が生まれる」と言われている。
21世紀は、薬さえ与えればいい、医療技術の進歩こそが大事という時代ではない。
ますます、人間中心主義がクローズアップされなければならないと感じる。
医者のためでも、お金のためでも無く、すべては「人間のため」になっているかどうかが問われる時代ではないか。
今年も、どのような患者さんとの出会いがあるのか、どれほどの患者さんが心身共に健康を湧き出させていけるか、心して治療現場に立ちたいと決意している。
ひとりの人間の生命力は人智では計り知れない。
その自らの生命力を開いていくお手伝いをさせて頂くのが「人間力」をもった鍼灸治療だ。
「人間力」とは、目の前にいる縁深きひとりの人に、徹して誠実に、尊敬の心で治療させて頂くことだと認識している。
今、目の前にまっさらのピンクのNARUMIの美しいマグカップが光っている。
今年10月の私の誕生日に後輩が送ってきてくれたものだ。
覚えにくい私の誕生日に彼女は15年近く毎年毎年お祝いをしてくれていた。
あれから1ヵ月半後の12月10日朝、その後輩は静かにこの世を去った。
まだ、40代。悪性リンパ腫から肝硬変だった。
マグカップが届いた頃、調度、彼女には退院許可が出ていた。退院許可といっても余命あとわずか。最期の時を家族と過して下さいという退院許可のようだった。
手紙には、いつもと同じしっかりした字で「悪性リンパ腫ですが、元気にしています。またすぐ良くなります」と全く終末期とは思えない文面があった。
この時、歩くのもままならない状態だったというのに。
彼女は私に、自分の病気を本当は伝えたかったに違いない。
彼女は信じられないほど人のために尽くす人だった。
相手のことを絶えず気遣って、気遣って、それは想像を超える程の気遣いだった。
お互い多忙のため、彼女からよく近況報告のお手紙を頂いた。
手紙のやり取りが少し続いたある日、切手を貼り、彼女の住所が書いてある新しい封筒とはがきが10枚づつ送られてきた。
私の手を煩わせないためだった。
すべて後から聞いた話だったが、悪性リンパ腫は全身に及び、昨年1月2日吐血、今年7月17日再度吐血をした。
2回目の吐血は数回にわたる大量出血だった。
意識朦朧となりながら駆けつけた妹さんに「お母さんには言わないでね。心配するから」と自分で血をかき集め隠そうとしていたという。
亡くなる一週間前、病院にお見舞いに行って私は唖然とした。
何ということか、あまりの彼女の様態の悪さに言葉を失った・・・死の影をはっきり感じた。
それでも、彼女は私の持参したお土産ひとつひとつを慈しむように手でさすりながら感謝してくれていた。何年ぶりか、2人でゆっくり話しができたのは。
彼女は、私が帰る間際、突然泣き出した。
こんな嗚咽をたぶん家族にも誰にも見せたことは無かったと思う。どんな思いだったか聞くこともしなかったが、
「よく頑張ったね」と心で言いながら、おでこやほっぺたをしばらく撫でてあげた。
妹さんが入ってきた時には、「退院したら鍼にいきますね」と毅然とした穏やかな顔に戻っていた。
2年前に会った時、あまりにもやせ細った彼女になぜもっと強く鍼を勧めなかったのかと悔やんだ。
しかし、人のために生きた彼女の最期は眠るように穏やかだった。
(永遠の生命)
人は死んで、今の身体はこの世に無くなったとしても、その人の生命はそのまま永遠に続くと聞いた。亡くなるとその人の生命が宇宙に溶け込んでいくらしい。
でも溶け込んでも、絵の具のように他の人の生命と交わることは無いそうだ。
自分の生命とは、自分が一生の間に思ったこと、行動したことの全てが自分自身の生命の深層に刻み込まれ、その人の生命を作っていくといわれている。
そして何かの縁に触れてまた、人間としてこの世に出現する。前世の生命状態のままで。
死んだら終わりという人がいるけれど、私は全くそうは思わない。
終わりで無いからこそ人は本来、より良く生きようとするのではないか。
私は彼女の想いがこもったこのマグカップを愛用しながら毎日彼女を思い出したい。
一生涯、彼女が私に寄せてくれた心に感謝し供養をしていきたいと思わずにはいられない。
その事が、彼女が教えてくれた“人を想うこと”の一部だと信じて。
(荘厳な夕日)
11月26日、母が亡くなってまる5年。褒められた記憶がほとんど無い程厳しい母だったが、最期に「あなたはどんな患者さんを診るのか楽しみね」「お母さん以上の名医になれるよ」と最大の励ましをくれた。
丁度、母を見送った後、17階の自宅から見た六甲山に沈む夕日は、今も尚、目に焼きついてはなれない。
この日の夕日は、母の鍼灸師50年の人生の総決算とも言うべき大勝利の姿をほめたたえてくれているかのように、厳かであまりにも雄大なものだった。
生前、常に「人は生きたようにしか死ねない」と語っていた母。
夕日と母の人生が重なり、母の見事な最期に拍手を送らずにはいられなかった。
(死は一時の休息)
母亡き後も、何人もの人の最期を見させていただいた。皆、夕日が沈むように今世の使命を終え、人生の幕を閉じ休息に入っていかれる。
何のための休息か。
それは次の生のためにエネルギーを充電しているのだと聞いたことがある。
次の生を今度は、はつらつと昇りゆく朝日の如く、若々しく力強く出発するために。
(科学が突き止めた真実)
先日、某新聞に、「最初は1つだった生物の命がいくつもの枝に別れ連綿と繋がって今に至る。だが、不老不死の生物はない。それが科学が突き止めたひとつの真実です」と分子生物学者の福岡先生の言葉があった。「科学は地球に壮大な輪廻があることも証明したのです」と。
全てが関わり合いながら、互いに助けをかりながら、今存在するこの事実。
そしてその存在は、必ず限りがあって生死生死を繰り返している。
なんというスケールの大きさか。
誰が欠けても何が欠けても今の存在は無い。
この考え方こそが、東洋思想の真骨頂だ。それを科学が証明してくれているとは。
(絶妙なるバランス)
人間の身体も知れば知るほど突き止めれば突き止めるほど、その絶妙なるバランスの見事さに誰もが畏敬の念を払わずにはおられないのではないか。
「薬の大製造工場は実は自分自身の中にある」と言われた著名な方がおられたが、本当にその通りだと実感する。いわゆる自然治癒力だ。
鍼はその力を最大限に引き出す手助けをする優れものだ。
先日も脳梗塞などで片麻痺の人のリハビリをする施設が紹介されていた。
楽しいことをする、自力を出す、そのためにバリアフリーではなく、バリア有りで廊下にはバラバラの高さのたんすを並べたり、頭にあたりそうなくらいの札をかけておいたり工夫満載。考えられないほどの成果を挙げていた。
楽しんで取り組める自発能動がいかに大切か。
自発でなければ、薬にばかり頼っていたら本当の自然治癒力が働かなくなってしまう。
(宇宙のリズム=慈悲の心)
ともかくも、科学の進歩は、不思議にも東洋医学の素晴らしさを引き出してくれているように感じてならない。
実際、世界的にも著名な生物学者であられる村上和雄先生は、遺伝子を研究すればするほどその驚くべき精妙さに驚嘆され、一体何が、誰が、このような仕組みを人間に与えたのかを考えざるを得ないと言われている。その不思議を先生は、「サムシンググレート」と名づけられた。
私の未熟な考えでは、その「サムシンググレート」は仏法の言葉で表現すれば「慈悲」に通じるのではないかと思う。
人を慈しみ、人を想い悲しむ心。この慈悲こそが宇宙そのもの、宇宙のリズムではないか。
大きな事を大げさに語るつもりは無いが、本来の人間の持つ慈悲の精神にのっとってこそ、より良き生き方が出来、それが荘厳な夕日の如く自分の人生の幕を閉じることになり、次の出発に繋がっていくのだと感じる。
母の命日は、私にいろいろと示唆を与えてくれる。只感謝しかない。
(嘔吐との闘い)
亡き母が、確か仕事が出来なくなる前月だったと記憶する。
珍しく仕事中に、トイレに駆け込む母の姿に、すぐ私は「もしや母はトイレで嘔吐しているのでは?」と悟った。
ただならぬ嫌な予感が、私の身体を駆け巡ったことをはっきりと覚えている。
トイレから出てきた母は何も言わず、何食わぬ顔でまた診察を始めた。
他のスタッフは何も気づいていない様子。
母に「さっき吐いてた?」と小声で聞くと、母は無言で「うん」と、キリッとした顔で頷いた。患者さんには、絶対心配かけてはならない。これは鍼灸師だった母の一貫した信念だった。
嘔吐・・・・母は疲れていても嘔吐する事など滅多に無かった。というより全く無かった。
何か消化器系に異常でも・・・?
それから、半年後に母はすい臓がんで亡くなった。
(大きな後悔)
消化器系の癌は往々にして食事を取ることが困難になる場合が多い。
ましてや、すい臓がんとなると・・・約一ヶ月間、母は食事を取ることが出来なかった。
スープだけでもだめですか?と聞くと、医者は、「いい匂いをかくと胆汁が溢れて嘔吐しますので・・・」と、本当に残酷そのものの答えだった。
ある日、母に「人間1ヶ月何も食べないとどうなるかわかる?」と聞かれた。
私は「大丈夫、大丈夫!」と答えるのが精一杯だった。
「残酷だね・・・」との母の言葉に何も言えなかった。
こんな小さな母との会話が、今でも、私の大きな後悔となってしまった。
(食べることの意味)
今日、テレビで「食の崩壊」との特集があった。
最近では、お腹が空くから仕方なく食べるという若い女性も多いらしく、朝は菓子パン、昼はお菓子。ハンバーガーのみの晩御飯もあるらしい。
お腹が膨れさえすればいいと、ある大学教授は主食はカップめんとお菓子。後はサプリメント一日300錠を頬ばっているとのこと。
ある心療内科の先生は、食事の環境が心に及ぼす影響は大であると言われた。
若い、うつ病患者さん20人全員が、家族で食事を囲んだことがない。または会話がなく、集まれば口げんかばかりという環境だった。
小さい頃、食卓でのコミュニケーションが無かったことが、対人関係を作れない原因だと指摘していた。
(生きていることの証)
また、違う病院では、脳卒中で寝たきり、殆ど身体を動かす事が出来ない男性に、少しずつおかゆを食べる訓練をしていた。
その男性は話すことも出来ないが「食べることは生きている証」と涙ながらに奥様に訴えておられた。
更に、違う麻痺の患者さんにも、食べる訓練を1年すると、なんと言葉と笑顔が出るようになった。
「ああ、おいしいね~」「食べ終わった!やったね!」「バンザイ、バンザイ!」とハッキリ。
何とうれしそうな笑顔だったか。
本当にこちらが驚かされる程の回復振りだった。
毎日、当たり前と思って食べている健康人には想像もつかないだろう。
食事を取るという、この行動がどれ程「生きていることの証」として大きな力になっているか、それは、私の考えなど遥かに超えていた。
(食べる事で愛し愛される人に)
私の尊敬する、料理家、辰巳房子さんは、食に関して非常に重要な発言をされていた。
「食べるということは、実は、常に絶え間ない刷新が行われていると言う事です」と。
それは、必要なものを食べることによって、「自分の生命の手ごたえ」を感じることが出来、それは、自分を信じることに繋がっていく。
自分を信じることが出来れば、あらゆる物事を信じることもできる。自分を信じ、人を信じる中で、真の揺るがない「希望」が生まれる。
その「希望」こそ人を愛したり、愛されたりという、人間にとっての土台になる。という趣旨の話だった。
(白米に真心を込めて)
まさに先述した全身不随の男性の食べることは、「生きていることの証」そのものなのだ。
病で苦しみ、ベットに寝たきりで、いつ治癒するかとも分からない日々の生活の中で、「食を奪われるということは、生きる希望そのものが無くなってしまうという事だったんだ」と私は、この番組を見ながら、母の言葉を思い出さずにはいられなかった。
健康な人には絶対に分からないことだろう。
食べることは呼吸と同等。無くてはならない行動だ。生きている証なのだから。
母が何も口に出来なかったとき、「真っ白なご飯が食べたいわ」と言っていたあの真っ直ぐな言葉を思い出して、今日も仏前にてんこ盛りの白ご飯をお供えした。
私の母との後悔の会話があったから、今度食べれない患者さんにお会いした時は、違った心で接していけると感謝しながら。