(生きることの意味)
母は、医者から不可能ですと言われた自宅への帰宅を果たした。皆、入院している人にとって、一番の望みは自宅に帰ることではないかと感じる。
自宅に戻ってきた母からは、喜びと共に死への覚悟を感じる発言もあった。生まれた限り、いつかはどんな人も必ず死ぬ。しかし、若く元気なうちは死を意識して生きる人は少ないのかもしれない。
どのような生き方を日々刻むのか、何を残して死ぬのかということは、高等な精神を保ち、必ず死に直面する人間にとって避けられない課題のはず。
母の同業者への手紙には、「私はただひとりになってもこの予防医学を叫び続けていくことが使命です」
「雑音を気にせず自分らしく生きる納得の人生を選び抜きます」「人は皆、死の準備のために生きている」と、死を見つめての今の生がそこにはあった。
たとえ病気になったとしても、その病気を意味あるものにする。してみせる。そんな決意を私も母の死に直面して誓った。宇宙には何一つ無駄なものは無いのだから。
人生に直面する全ての事も大きな意味があるに違いない。
(人間の魂に触れる)
母が亡くなる2~3日前のこと、母は殆ど会話が出来ない状態だったが、気丈に「ありがとう、ありがとう」と口を動かしていた。
死を予感していた私は、母の一切の心配を無くし、安心させてあげたいと常に心を砕いた。
母の腕をさすっていたある夜、母が「痛みが全く無い・・どんな治療よりあなたの手は効果抜群ね」と嬉しそうだった。
どんな気持ちで人間に触れるのか、その気持ちに微塵の不純物も混じっていないかどうか。全身全霊の無私の精神だけが、相手の魂にまで届くのかもしれない。
私はここに医療の原点を見出したい。
(激痛との闘い)
2004年5月母が亡くなる半年前、私は母と一緒に韓国へ旅行に行った。
韓国ドラマ「ホ・ジュン」に魅せられ、一度行きたいとの母の希望からだった。ホ・ジュンが少女を診察している大きな像の前で一緒に写真を撮った。母はホ・ジュンの優しい眼差しとそのふくよかな手に魅了されていた。
その時既に母の身体はガン性疼痛に蝕まれていた。
韓国から帰った直後、母は仕事も出来ないほど腹部と背中、足の痛みに苦しんだ。
総合病院など様々なところで検査を受けたが、初めに行った病院で心臓の疑いをかけられ、大病院への紹介状も次々と循環器系に回わされた。心臓の負荷試験をし、血液検査をするも何の異常もなく、結局、最後に「繊維筋痛症」との診断を受けた。6月からその痛みは更に激しく、私は兄と一緒に鍼をしたり、冷蔵庫で冷やしたタオルを熱感のある背中や腹部に数分ごとに取り替えた。それは夜中も続き、私の手もひどい水膨れになる程だった。膵臓は胃の後ろにあり、そのすぐ後ろには腹腔神経業という神経の束がある。
母のガンはその神経の束にまで浸潤していた。その痛みはどれほどのものであったか、母の忍耐力は半端ではなかった。
(本当の病魔との闘い)
それから4ヵ月後、近所のクリニックで膵臓ガンであることが分かった。それは亡くなる1ヶ月半前のことだった。
多忙を極めた20年前、急性膵炎で生まれて初めて緊急入院した時、膵臓あたりに影が有ったらしいが再度の検査で見つからずそのまま帰宅していた。
「この膵臓ガンは、約20年前にできた物と思われます。」と医者は言った。
ガンの憎さは、その強烈な痛みと、徐々に容赦なく身体を蝕む増殖能力だ。しかし、人間の精神力はそんな憎きガンさえ微動だにせず、打ち勝つことの出来る強靭さを持っていると私は信じている。
母との病院での1ヶ月半の闘病生活は、ここに書き切れないほど貴重な体験となって私の生命に刻まれた。
ガンは、肝臓、肺、腎臓など全身に広がった。師匠と連携を取りながら兄と懸命に病院で治療した。主治医も西洋医学では手の打ち様がなく、「どんどん鍼をしてあげて下さい」と快く勧めて下さった。
(宇宙のリズムの中で)
病院では凄まじいガンとの闘いと共に、不思議にも弾ける笑いがあった。
母の一言一言は皆の心を通じて笑いへと変わった。
また、何も口にすることが出来なかった母が、私の食事を気にして、「退院したら、頭の良くなるご馳走作ってあげるね」等と話してくれた。実際、家に「頭の良くなる料理」という題の本が置いてあったのには苦笑いだった。
あんなに辛かったのに、なぜあんなに笑いがあったのか。
実は、私は、母のガンが発見されたその日、9月30日から、全てにわたって「宇宙のリズム」の中に入っていくような感じがしていた。
私の「宇宙のリズム」という表現は、何が起こっても全て自然のままに進み、そこには何の不自然さも無い、極論すれば、善への回転・・・本当にそんな感じだった。不謹慎な表現なのかもしれないが、素直な気持ちだった。
その後の母との闘病生活は、今、考えても息苦しくなる程、心身共に私にも苦痛を与えたが、実際、全ての事が母にとって最高の方向に向かっていった。苦悩の中にも、私は、その宇宙のリズムに感謝の気持ちで手を合わせていた。
来月26日は、私の「医療の原点の日」でもある鍼灸師母の7回忌にあたる。この間、母のことは一日も忘れたことはない。それより、母の職場を受け継いだ私は、いつもいつも母と共に治療をさせて頂いている気持ちでいる。
母のおかげで今の私がある事に心から感謝して、この一ヶ月間、鍼灸師母の事を偲び、母の心を残していきたい。
また、その心は私の医療の原点でもある。
今月は私の誕生の月でもあり、もう一度原点に戻って医療に携わりたいとの思いから、コラムを通して自分の決意を固めていきたいと思う。
(人生に妥協なし)
私の母は、昭和一桁生まれ。母の父が福島県で長年鍼灸師をしていたお陰で母は17歳で鍼灸の免許を取得し、非常に厳格な父の下で働いていた。小さい頃から鍼と本を読むことが大好きで、興味はこの2つだけ。姉妹から堅物扱いされるほどだったという。私の知る母は、ながら人間の最たるもの。ラジオで音楽を流しながら、テレビを見ながら、いつもいつも鍼灸の勉強をしていた。テレビを見ながら時に私に、「このラーメン屋さんどうして繁盛してるかわかる?」と質問した。母は食べたことも無いのに「味に妥協がないからよ」と。「ふ~ん・・」と何気なく聞いていたが、自分の仕事に妥協が無い、実は本当に難しいことだ。寝るときも、枕元に師匠のテープを流しながら、師匠の書物を抱きながら寝ていたそんな鍼灸一徹の母だった。
(一貫した態度)
また、母は患者さんに、これ程までにと思うほど心を砕いていた。いつもどうしたら楽にさせてあげられるかを考え続けていたのだろう。患者さんを思うその心と行動は、母の死後、患者さんから教えていただいた。今だに、母の事を思い出すから西宮に近づけない患者さんが何人もおられる。
また、母がいなくなって何回も脳梗塞になり、3年目にやっと来院され、現在脳梗塞で倒れることも無く通ってくださっているご婦人もおられる。
昨年、京都からある男性が来られた。昔の母の患者さんだった。ベットに横になって頂き、しばらくして中に入ると、手で目頭を押さえ涙をこらえておられた。「どうされたんですか?」と聞くと、その男性は「あなたの声がまるで和先生がそこにいるようにそっくりで・・・」と母を思い出し声を詰まらせておられたのだ。母と意気投合していた現在95歳の患者さんは、「和先生がいつもあなたの横に見える」と言われ、私の身体をいつも母の様に心配して下さっている。
死しても尚、なんて幸せな母かとしみじみと思う。
(母の手紙から~自分の生命を見つめて)
6年前、母の遺品を整理していたら、出てくるものは鍼灸に関するノートとメモの山。ダンボールに10箱は優にあった。
覚えられないから書いて書いて書きまくるのよ。とよく言っていた。また、驚いたことに母は、患者さんに本当に沢山の激励の手紙を出し、自分の赤裸々な気持ちも綴っていた。
今、私の手元には患者さんから頂いた懐かしい母の字で綴られた手紙がある。常に、自分の心が清らかかどうかを厳しく自分に問うていた母。ある手紙には、「自分の命の軌道修正をおこないながら生きたい」「私の地球につぶされそうなショックとは、濁った生命を保ちながらまだ変革できないでいること」とあった。60歳を超えてもまだ自分革命に挑戦し続けていた。亡くなる1年前の手紙には、「生命は永遠なるものであるから一生はほんの僅かな時間です。僅かな時を精一杯に生きて次の素晴らしい生を勝ち取るため明日からまた鍼をさせて頂きます」とあった。
まるで映画の名セリフのような言葉を残して・・・・母は患者さんに反対に勇気を頂きながら鍼灸道を歩んでいたのだと感じてならない。
(鍼に対して)
「鍼はいいものを使いなさい」「鍼はいつも撫で回して大切にしなさい」
これは鍼灸の師匠が特に古代鍼(使い捨てでない接触鍼)を扱う時の心得として常々言われていることだ。
また、ある日、「ツボには目があるんだぞ、無闇に針先を向けたら反応する」と言われ、鍼をする時はまず針先を手の中に隠すように促された。
医療の世界でこのような発言は奇異な感じを受けるかもしれないが、私は、これら先生の一言一言に興味を持ち、とても大切にしている。
(研修生に対して)
また、研修に来る私たちのことも、本当によく観察され注意をして下さる。少しうつむき加減の研修生を見つけると、「なにかグチャグチャ考えているな、真っ直ぐに迷わずに生きなさい!」といわれる。研修生のドアの開け方、歩き方から、休んでいる時どこに寄りかかっているかまで観察されている。突然言われる一言も後で考えると本当に深い意味があり驚く事がある。
(患者さんに対して)
患者さんには、玄関から入ってこられた時からチラッと見られ、治療の前にカルテの字体なども鋭く分析される。
多くは語られない先生の一言に涙をされている患者さんも多い。本当に人間を見つめる先生の眼は鋭く、その直観力は群を抜いている。
(先生のブログに対して)
研修に行く度に、先生が最近はじめられたブログに対する思いにも感心してしまう。写真一枚一枚を丹念に選ばれ、読者が飽きない様に工夫され研修生にも意見を求められる姿。先日、「こうして「意念」を入れていると必ず人の心を打つようになるんだよ」と言われた。全てに通じる一言だ。
(心持ちの大事)
つまり、先生が常に一番大切にされている事は「心の中=心持ち」なのだ。こちらがどのような心持ちで患者さんに接するのか、どのような心持ちで身体に触れ鍼を施すのか、どのような心持ちで師匠に向かうのか、この心持ちこそが鍼灸の本当の効果の有る無しを決定していく。
また、患者さんの心がどこにあるのかを見つめ調和の方向へと指し示す。
全てが無駄なく意味のあることだと限りない楽観主義の方向へと。
(心持ちの伝染)
我母が闘病中のこと、母の隣に母より年配の婦人がベットに寝ておられた。ある朝、病院へ行くと、ガン末期の母が弱弱しい足取りでそのお隣のご婦人の口にご飯を運んでいた。
私は思わず母の手をとって代わりに食事を運ばせていただいた。母は、横で「優しい声だね、沢山の人を救っていける声だね」と珍しく褒めてくれた。
もし優しい声だったなら、母の姿に母の心持ちが私に伝染したものだと感じる。
(悲しみあってこそ)
母が亡くなって今年11月は7回忌。1秒の命の大切さを痛いほど知った病との闘いだった。母の死のおかげで、生命の火が残り少なくなっていくものへの限りない愛情が芽生えた。生きとし生けるもの全てに。
生死の境こそ、実は心持ちの大事しか通用しない恐ろしく厳しい世界なのだ。私の師匠も大切な娘さんを病で亡くされている。今でも、深い悲しみを師匠の背中に感じる。
どうしようもない悲しみがあってこそ今の仕事に携わる事が出来るのだと今は報恩感謝しかない。
「25歳まで、診療所の前に極楽湯がある事しか知らんかった。鍼灸の事だけを考えていたからなぁ。前は極楽湯、後ろは地獄鍼、わぁはははっ!!!」
と私の肩をバシバシ叩きながら大笑いする。私は、こんな豪放磊落な鍼灸の師匠が大好きだ。
(母と師匠)
師匠のことは、亡き母から、そして兄からよく聞いていた。
母も兄も同じ師匠を持つ鍼灸師。
特に、母は毎日のように師匠の講義のテープを、何をしてても聞こえるように爆音で流していた。
ある日、母が師匠の本を抱きながら寝ていることもあった。
母は18歳で鍼灸の免許を取得してから亡くなるまで鍼灸を愛しこの道一筋に生き抜いた。そんな母が、50歳を過ぎてから今の師匠に出会い、今までの全ての鍼灸のやり方をあっさり捨てたのだ。
「この先生は本物!」と何回聞かされたか。また、研修会から帰ってきた母が「先生すごい人なんだけど、お口も悪くてね~。今日、三ばばトリオって言われちゃった!」と苦笑いしていた。(母を含めて年齢の重ねた三人の先生が仲良く勉強していたので)この時、私は違う職業に従事しており、さほど興味も無くその言葉を聞き流し、その先生の風貌を少し想像したりした。
きっと長~い白髪(はくはつ)の仙人のような人なんだろうな・・・・
(想像を超えて)
鍼灸の道を決意し、専門学校に入った時から、私はなんのためらいもなく、母、兄が尊敬するこの先生の北辰会の勉強会に参加し、治療所にも見学に行かせて頂いた。
初めてお会いした時の気持ちは今でもはっきり覚えている。
勉強会は恐いほど熱気にあふれ、皆真剣そのものだった。
そして、師匠には不思議なことに「懐かしい気持ち」でいっぱいになった。
お声や話をいつも聞いていたからなのか・・・生の師匠は、人を引きつける迫力と情熱が全身からほとばしり、白髪(はくはつ)どころか、乗馬やスキーなどのスポーツで日焼けした精力漲る若々しい風貌だった。
その名、北辰会代表藤本蓮風先生。鍼灸医14代目、20歳で開業され現在までに65万人以上の患者さんの治療にあたられている。昨年12月、PHP研究所から出版された一般向け人気書籍「鍼1本で病気がよくなる」をもって出版書籍は16冊に上る。
師匠の下には、様々な重症患者さんが遠方からも来院されている。来られた時は下向き加減、帰られる時の患者さんの元気そうな笑顔。
実際に1本の鍼のすごさ、師匠の人間を感じる繊細さを目の当たりにする。
(日々感謝)
恐れ多くも、私が感じる師匠を一言で表現すれば、鍼灸を誰よりも愛する人間観察の達人。そして妥協無く厳しく、分からないように優しく繊細。
現在、師匠の下に若いお弟子さんが続々と集まってくる。
それも、20代前半の人たちが師匠に触発され、すごい向上心を持って様々なことに挑戦されている姿に、師匠の求心力のすごさを感じる。
あまりにもストレートな師匠なので、誤解も多々生じる事もあるが、全て患者さんの病と真剣に向かい合い、鍼灸の本当の力を感じてもらいたいがため。
どれほど師匠が鍼を愛しているのかが分かれば、その厳しさも一言の意味も大きな意味がある事を感じとれる。
今鍼灸師として自分があるのはただただ師匠のおかげ、未熟すぎて反省だらけだが感謝以外ない。
(師匠の挑戦)
今年4月から師匠は「鍼狂人の独り言」としブログを立ち上げられた。
研修会に行く度に、どれ程精魂込めてブログを書かれているかを目の当たりにする。1ヶ月経った現在も毎日楽しんで書かれている。
そのブログに、笑ったり、涙したり、元気になったり、考えたり、様々な感情が湧いてくるから楽しい。
「読まなくていいから人気ランキングをクッリクせよ!」との笑ってしまうような発言も、鍼灸を広めたいとの一心からだ。
師匠に出会って8年、今日も研修会に行き、ふと師匠の事を書きたい衝動にかられた。勿論、ほんの氷山の一角であり、失礼な発言もお許し頂きながら・・・御健康と益々のご活躍を心から祈りつつ。