(患者さんの訴えと異常なしの診断)
先日、患者さんでもある友人から電話があり急遽自宅へ向かった。見ると81歳になる彼女のお父さんが横たわっている。物を言うのもしんどいらしい。その上お父さんは耳が遠く補聴器を付けておられた。ご本人から話は聞けない。
友人曰く、2週間前から、食事も入浴も殆ど出来ない程しんどく様子がおかしい、眠れずにドンドン痩せてきたとのこと。
数箇所の病院に連れて行き、血液検査、エコー、心電図、CTなど検査するも何処も異常はありませんと言われたらしい。最後に行った病院では、肺気腫かもしれないといわれ酸素吸入器を使用した。気管拡張の薬や眠剤も出され服用。それでも、苦しさはおさまらず、彼女の会社に何度も苦しい、しんどいと電話があるというのだ。
早速、お父さんに「どこが苦しいですか?」と尋ねたら、「ここ・・」と左胸をさすられた。心臓かなと思いつつ、それを確認するために、まず顔面診、脈診、舌診、重要穴を触った。完全に心筋梗塞を疑った。検査機器は私自身の五感だ。慎重に治療を施し寝ていただいた。
後に友人から、様々な病院の検査結果などを見せてもらった。異常なしどころか検査結果にもCPK値が異常に高く出ていた。これは、クレアチンフォスフォキナーゼというらしいが、心臓をはじめ骨格筋、平滑筋などの筋肉の中にある酵素で、筋肉を破壊していくらしい。いずれにしてもこの値が高いとまずは心筋梗塞を疑ってもいいとのこと。
しかし、心電図に出ない・・・・医者が迷うのも無理はないが、こんなに苦しんでいるのに異常なしで本当にいいのだろうか?
食生活を聞けば、油物大好き、お酒、タバコなど半世紀以上にわたる。そして奥さんの看護をしながら数ヶ月前に自宅を引越したという。日常生活に非常にストレスのかかっている。
(患者さんの笑顔)
往診して帰宅すると同時に友人から連絡があり、あれからお父さんの調子が良くなりお腹が空いたと今、食事をしていると驚いていた。ご飯2口しか食べれないと言っていたのに・・・
まだまだ油断大敵だが、鍼の効果恐るべしだ。
次の日、再度往診へ。横になっておられたお父さんが私に気づき飛び起きられた。
その行動、お顔の艶から気の充実を感じた。かなり調子が良くなっていると直感した。
実際、この日の気色(顏色)、脈、舌、ツボの状態、共に昨日より良くなっていた。
その上、治療が終わると、色んなお話をして下さった。今回の病気の事で6回も同じ検査をされて次に何が出てくるかすぐに分かったという話。昔仕事場で活躍し70歳を超えても残って欲しいと社長から頼られていた話。本当に嬉しそうに話してくださった。
この笑顔を見るために私は頑張っているのだと嬉しさが広がった。
お父さんは、帰りまた起き上がってくださり、手を振って笑顔で見送って下さった。
(四診(望・聞・問・切)合参による診断)
三回目の治療には、好きなお酒も飲み、ゲートボールに行けるまでに。
この事実を知れば、いかに北辰会の鍼灸治療が優れているか疑う余地は無い。
顏色を見て、脈、舌、ツボの状態を診る。数分もあれば出来る。実際に患者さんに触れて診断する事の重要さを声を大にして訴えたい。
この鍼の効果は、ただ師匠、藤本蓮風先生の教えのままにすればこその結果なのだ。
先生が何十年もかけて何十万人という患者さんの臨床と膨大な学問から編み出された北辰会の鍼灸方法。感謝しない日は一日もない。
検査結果のみではどうしても患者さんの訴えに応えることはできないと感じる。
東洋医学の「黄帝内経」では「七情」と「気の動き」について興味深いことが書かれてある。
七情とは人間の精神状態のことで、喜、怒、憂、思、悲、恐、驚の七つを指す。これらは、誰もが持っている感情で正常な状態では発病には至らない。
しかし、突然の激しい精神的なショックや、悩みなどが長期にわたると、それらは、生理活動で調節する範囲を超えてしまい病を引き起こす原因となってしまう。特にその悩みの解消方法をもたない人にとっては、益々悩みが深刻になり体に影響を与えることになる。
(「気」の動き)
気が全身をまんべんなくスムーズに流れていると気分は爽快といえる。
しかし、七情(精神)の乱れにより「気」の動きが偏れば、身体に不調が現れてしまう。
「怒り」が過ぎれば「気」は上昇する。気が上に偏る。先日の、怒った猫の毛が逆立つようなもので、カッとなって気が逆上するとも表現される。
怒りは「緊張」にも通じるため多忙過ぎて緩みがないことも同様に怒りに入る。
「恐れ」が過ぎれば「気」は下降する。気が下に偏る。地震などの恐怖で腰を抜かしたりするのは気が下降するためといえる。まさに恐ろしくて気が抜けると表現される。
「驚き」が過ぎれば「気」は乱れる。驚いて気が動転する、というように。
「悲しみ」が過ぎれば気は消える。悲しくて生きる気力が無くなった。と言うように、悲しむと抵抗力が無くなり、よく風邪を引いたりする。
「思い」が過ぎれば「気」は固まる。気が腹部などを中心に偏る傾向がある。気がふさぐ程考える、との表現が当てはまる。
「憂い」過ぎれば「気」は縮む。「気を揉む」の表現に通じる。
(怒り過ぎれば気は上がる)
では、それらがどのような病気を引き起こす原因となるのか、実際の症例で考えていきたい。
先日、患者さん宅へ往診にいった。ぎっくり腰で全く動けなくなり、おトイレに行くのもご主人に抱えられて2時間もかかるという重傷だった。きっかけは大きな机を持ち上げた時とのこと。
しかし、きっかけはそうでも、なぜそのように酷いぎっくり腰になってしまったのか。色々問診をしていくと、ぎっくり腰になる前、多忙の上、イライラすることが続いていた。つまり怒りの精神状態のまま生活していたのだ。
この患者さんは元来、腎の蔵が弱く(腎の蔵と腰は密接な関係がある)昔から腰痛持ちだった。
更に、この6月は北西から涼しい風が吹いているため足元が非常に冷えやすい状態にあった。
つまり、怒りで気が上へ上がり、足が冷えることによって熱が更に上に上昇する。体全体のバランスは、上に気が非常に傾いている状態となった。
その上、患者さんは、下にある腰が弱いため、腰に関係のある気(腎の気)が弱っている。上に気が偏り、下の気が不足する。つまり、上下のバランスが大きく崩れ、突然の腰痛になったと考える。
突然のぎっくり腰の患者さんに最近のイライラ度合いを問診すれば大概「怒り」「緊張」が過ぎている事が判明する。
つまり、簡単に言えば「酷い怒り(緊張)」+ 腎が弱い(腰弱い)=ぎっくり腰という方程式といえる。
その患者さんには、上に偏った気を下に下ろす治療ととに、下を温める治療を少し加えた。1回の治療で15分でおトイレに行けるようになった。
(「気」のつく言葉)
日本語には「気」の付く言葉が多数ある。「元気」「病気」「気楽」「気分」「気が短い(長い)」「勇気」「気が滅入る」「気が晴れる」「強気」「弱気」「やる気」「内気」「根気」など切りがないほど、心の状態に関する言葉が殆どを占める。
東洋医学で重要な概念、「気」の付く言葉を当たり前のように日常で使っていることに気づく。
(精神状態を表す「気」)
「病気」も実際、単なる気の病ではなく、性格や生活習慣の中から生まれる精神状態などが密接に関わっていると東洋医学では考える。
よって、体と心を切り離して東洋医学は成り立たない。
例えば、精神的ショックを受けると、胃に潰瘍が出来たり、嫌なことがあると下痢をしたり、ひどく緊張したら咳が出たり等々、人によって様々な症状がでる事からも推測できる。
患者さんに問診すると、それらの事が更に明らかになる。長年の解消できないストレス、突然のショックな出来事、多忙な仕事、ストレスから来る過食などから身体に不調をきたしている人がかなり多く見られる。
(「気」ってあるの?見えるの?)
「気」には実体が無い。陰陽でいえば陽に分類されるため軽く、変調をおこすと上昇し過ぎてしまう。よく足元が冷えるとか、頭がカッカする等と表現するように、熱は「陽」で気とともに上昇しやすく、冷は「陰」で気とともに下降しやすい。
身近な例でいえば、猫を怒らせたら、背中が山形に持ち上がり、毛が逆立つ。これを「気」が上がっていると表現する。
四つ足の百会というツボは、丁度背中の中央にあり、それは人間の頭のてっぺんにある百会に相当する。人間を怒らせても毛は逆立つことは無いが、よく見れば産毛などは実際立ってたりしている。また、怒ると目がつり上がったり、血走ったり、頭がピリピリしたり痒くなったりもする。
これらも「気」が「熱」とともに上がっている証拠であり、「気」が上がっているのが見える状態といえる。
「気」は現実に存在し、すべてのものを形づくっている。そして、誰もが気が張ってるな、気が抜けてるな、気が緩んでるな等と自分や人の気を大雑把ではあっても実際に感じて生きてるのである。
それを東洋医学では、気の有る無し、気の偏りなど気の状態を体表観察から察知して調えていく治療として確立した。
よく患者さんに、「先生の鍼治療は他の鍼灸院とは随分違いますね」と言われる。
鍼の本数は、ほぼ1本、患者さんの訴える痛い場所には刺さないという事に驚かれながらも、その効果に賛同してくださる。
「これは、師匠藤本蓮風先生を代表とする北辰会方式という治療法なんです」とお伝えする。蓮風先生のことは度々紹介させて頂いているが、リーダーの人柄や思想性がその会の方針や方向性を決定していく。よって、はじめに先生の事を少しご紹介したい。
全身から、鍼灸に対する大いなる信念、情熱、確信が満ち溢れている先生。
人間を見つめる眼は温かくあまりにも鋭い先生。
常にナポレオンの如く「前進!」を合言葉に真の医学を追求し続けておられる先生。
生命力に満ち溢れ、若武者のように自由闊達な先生。
難しければ難しい程、闘志が湧きいずる先生。
非常にせっかちな面と、驚くほどの根気強さを備えた先生。
挙げれば切りがない・・・・
このような藤本蓮風先生を代表に北辰会は1979年に発足する。
蓮風先生の60万人を超える膨大な臨床実践から、診断治療法則を論理化したものが「北辰会方式」として構築される。
2009年2月には、一般社団法人北辰会として新生した。
北辰会の理念は、東洋医学は真に医学であるとの立場から、病の治療を「学」と「術」の両面から追求している。そして、東洋医学における人間の「体」と「心」と「魂」の救済を目指している。これは、単に身体のみを診るのではなく、心身不二の立場から、身体のバランスの乱れは、心神(精神)と深い関係が有り、身体から心、更には奥底の魂の領域までをも変革可能な医療であるとの信念に基づいている。
北辰会の治療は、論理性にすぐれた現代中医学をその基本理論としている。そして、望・聞・問・切の四診合参により多面的に病態を把握していく。
望とは、望診のことで、体型や動き方、更には皮膚、顔面、舌の状態を診ること。
聞とは、聞診のことで、声や話し方、口臭や体臭をかぎ、診察すること。
問とは、問診のことで、生活習慣、自覚症状や食欲、睡眠、既往歴などを質問して情報を集める事。
切とは、切診のことで、患者さんに触れて、脈診、腹診、ツボの状態(体表観察)などを診察する事。この四診を総合し、なぜ患者さんは、病気になったのかを判断していく。
この中には、北辰会独自の空間診という、気の偏りがどこにあるかの診断法や、腹診において日本伝統鍼灸古流派の夢分流(むぶんりゅう)を現代に生かせる打鍼術として応用している。
更に、診断後の鍼の本数は、1本または少数鍼にて、凝縮して効果をあげる方法をとっている。また、子ども、敏感すぎる人、弱りきっている人などに古代鍼(こだいしん)という接触鍼を使用し、刺さない鍼として応用している。
私も、現在も週1回~2回、奈良におられる蓮風先生の下で鍼灸の勉強を継続し、日々精進している。このことがどれ程、幸せな事かを感謝しない日は無い。
先生の偉大さを証明できる自分に成長する事、それは、多くの患者さんを救っていく私の使命であると共に、先生に対する報恩だと感じてならない。
(再会)
先日、福岡で20数年ぶりに恩師に再会した。恩師と言っても今までお会いしたのはたった3回。後は、年1回の年賀状のやりとりだけ。
なのに、一度お会いしたらそのパワーと優しさにグングン引き込まれ忘れられなくなる。本当に魅力あふれる先生・・・。
先生との出会いは、私が19歳の時、母から「この先生の本、素晴らしいから読んでみたら?」と勧められたのが切っ掛けだった。それは、『なぜ僕をしからないの?』という先生自身の障害児教育の実践を綴った本だった。
一気に読み、先生に熱烈ラブレターを出した。私の熱意が通じてか、神戸での講演会開催を先生より教えていただき初めての再会を果たした。
初めて出会った時の先生は、真っピンクのパンタロンスーツ姿だった。年齢は完全に不詳。得意の話術でどれほど皆を笑わせてくださったか、昨日のことのように思い出される。
講演後、「あなたのお手紙をずっと鞄の中に入れて、お会いできるのを楽しみにしていたんですよ」と持ちきれないほどのお土産を下さった。ひとりを徹して大切にされる先生は何十年経ってもいつも同じだった。
(自然体の素晴らしさ)
先生は現在、89歳(年齢ばらしてごめんなさい)。改札口ですぐ私を見つけてくださり、「実千代ちゃんっ!」と懐かしい響きのある澄んだ声が聞こえてきた。
先生のお顔を見て本当に驚いた。若すぎる・・・。髪の毛は黒黒としたセミロング(ほとんど白髪にならないと言われる)、柔和なお顔、しわが殆どない、お身体を拝見しても20~30年は若い肌。ただ、電動自転車で転倒してから膝を悪くされたとお聞きし治療に伺った。膝以外は完璧なほど柔軟な、バランスのとれたお身体だった。
その理由を、いろいろ探っていくと、現在もボランティアで太極拳と練功18法を教えられ、バイクを見たら「また、ナナハンに乗りたい!」と語る先生、恐るべし。そして、なんといっても一番の若さの秘訣は、心身ともに変な力が一切入っていないということだった。
自然体の先生のそばにいるとこちらの力も抜けて自然体でいられる。その感覚が不思議で本当に心地よかった。
(少しだけの恩返し)
また、ご親戚が著名な画家ということもあり、貴重な絵を数枚購入させていただいた。赤を基調にした果物の油絵とお花の水彩画。その画家信子さんは現在97歳で現在も絵を描いておられるというのだから驚くばかりだ。
大きなバラ庭園ともいうべき素晴らしいお庭。何か雰囲気のあるお家。ご家族の皆さんに初めてお会いしたとは思えないほど寛がせていただいた。
鍼灸に携わりこのような形で少しばかりご恩返しをさせていただけたことに感謝。亡き母の笑顔が浮かんでくる。