今日、師匠が御自身のブログの中で、「デリカシーを欠く人には永遠に生体の語り掛けを聞くことかできない」と言われていた。
何て的確で核心を突いた言葉かと何故か嬉しくなった。
最近、私もデリカシーという事を考えていた所だっただけに。
デリカシーを広辞苑で調べると「繊細さ。感情や感覚の細やかさ。」との意味。
これは医療全般に言える事で、医療人にとって必要不可欠の条件だと感じている。
日本では特に、患者さんは医療者に遠慮して、中々聞きたい事や疑問に思う事を率直に聞けない雰囲気がまだまだあるのが現実。コミュニケーション不足が否めない。
ではどうすれば、医療者と患者さんとの円滑なコミュニケーションを保てるのか。
その根本は、医療者の傲慢性を意識して排除していくべきでは無いかと思う。
先生と言われるだけで、自分が偉くなったと錯覚する。医療者が、病を持つ弱者に対して、弱者という意識だけで接すると、誰もが知らないうちに傲慢という魔性に取り憑かれてしまう。
病で苦しんで初めて人は、人としての優しさや謙虚さを身につけていくのでは。
愛する人が病で苦しんでる姿に胸を掻き毟られて、人の心は耕かされていくのでは。
病治しの主体者は医療人との責任の元に、医療者と患者さんの橋渡しとして、鍼はその役割を担ってくれている。
日々、患者さんと鍼に感謝しながら、最高に心地よい距離感を保ちながら病治しに精進していきたい。
東洋医学を学んでいると、ツボの反応を診るのは当然の事として、人の服装、色調、髪型、仕草、立ち方、歩き方、字体まで自然と目に付く様になってくる。
この医学では、何度も言うように心と身体、魂の領域まで繋がっていると考える。
つまり、大きくいえば体表から魂に至るまで一本に繋がっていると捉える。故に、その人の内面は目に見える所に必ず現れるもの。
特に最近、人の動作に注目してしまう。よく師匠が相手の真似をすると、どの様に痛んでいるか分かるぞ、足の悪い人が来られたら同じ様に歩いてみるといいと言われる。
また、師匠は、患者さんは勿論、弟子たちの立ち居振る舞いも何気に観察している。男っぽいか女性っぽいか等の大きなカテゴリーから、ゴミの拾い方にいたるまで観察し、その人自身を感じておられる。人間観察の達人らしく。
私の院には、彼等のブログでも紹介しているように、若手の男女スタッフが働いてくれている。
何も言わずとも、患者さんに対する配慮は大したもので、感謝の声も多く嬉しく思っている。
そんな彼等の私の注目場所は、足(脚)。脚に注目すると、男性スタッフは何処かしら女性っぽく、女性スタッフは何処かしら男性っぽい。今日も正座と立て膝だったし。
男性スタッフの松本が、最近ブログを更新。(ご覧あれ)
コウノトリの里に行った時、コウノトリの巣の上で鳥になりきっていた写真を公開した。
私はこの写真を見て笑いが止まらず。ある鍼灸師は、これは卵を産んでる姿だ、と。(爆笑+納得)
2人の脚をはじめとする動作から、男性スタッフは「男中の女」、女性スタッフは「女中の男」かなと。
職場での私にとっては、これはありがたい事で、男性としての威圧感は無く、女性もテキパキして、バランスがとれていると感じている。
自分の事はさて置き、何気に人の挙動を観察すると、様々な発見がある。
普通は見えないものが見えたり、動かないものが動いたり、予言が悉く的中したり、世の中には、本当?って思う現象を語る人がおられる。
実際にその事は嘘で無い。現実にある。
特に心身一如とする東洋医学においては、人間の内面を深く追求せざるを得ないので、多少はスピリチュアル的な感覚が鋭くなってくるが、どこまでも理論プラス感性を磨く事を重視している。
実際、私自身にはその様な所謂、特殊能力などさらさら無く、極たまに夢が正夢になったりするくらいで人並みの感覚でしかないし、持ちたいという願望もない。
東洋医学では、この様な特殊能力は、肝の臓と、特に本能、感覚を主る肺の臓に何らかの偏りがあるためとする説もある。
実際その様な患者さんに接するとそれらの臓のツボに強い(実際は弱い)反応を示しておられる。
それはそれとして、昨日読んだ尊敬する臨床心理学者の河合隼雄先生の著書には、非常に考えさせられた。
まず、先生は「源氏物語」の中にある超自然性、怨霊とか…について、「あんなのは全く現実だと思う」と断言されている。
そして、精神病の患者さんに、冗談半分で「あなたは絶対治らないだろう」と言いながら、しかし、「偶然ということがあるから、僕はそれに賭けているからやりましょう」と言う。
実際に皆が信じられない様な偶然が起こって治癒していくらしい。
「その現実を語れば、皆がそれはおかしいおかしいと信じない。皆が「現実はこうあるべきだ」という、ものすごくけったいなことを信じているのですよね」と先生は言われる。
そして、先生は、「ぼくは何をしているかというと、偶然待ちの商売をしているのです。みんな偶然を待つ力がないから、何か必然的な方法で治そうとして、全部失敗するのです。僕はなおそうとなんかせずに、ただずっと偶然を待っているのです。」と言われていた。
私の中では河合隼雄先生故に、これらの発言はある面カルチャーショックだったし、反面、先生に対するひとつの謎が解決した様だった。
その謎というのは、かなり前の何かの対談で、河合隼雄先生は、どの様な暴言や脅しを執拗に大声でかけてくる患者さんに対しても、一切心が動かないと言われていた事だった。
動かないというのは、本当に動かない事で、自分が強いとか、冷たいとかでは勿論無くて、ご自分の主観が一切入らない、そのままの患者さんを感じていくというような意味だった。私はこの一言から河合隼雄先生という方に非常に深く興味を抱いた。
河合先生ほど、人間を愛し人間を知悉しておられた型破りな臨床心理学者はおられないと思うし、先生からすれば普通の事、私からすれば特殊能力を持たれた方と言いたくなるような偉大な先生だった。
何が普通で何が異常なのかもう一度考えてみたくなった。
昨日、毎週行われる鍼灸の勉強会「火曜会」での事。
師匠から、今日は手の原穴診(げんけつしん)をするから、モデルになるようにと指示があった。
原穴診は「体表観察」のひとつで、東洋医学において、臓腑を含めた臓腑機能の異常な状態を診るのに優れている。
共に学ぶ火曜会メンバー約20名全員が、順番に両手各六箇所の原穴を触っていく。
色んな手、色んな気(迫)、色んな触り方、色んな感情に至るまで、触られている方はビンビン感じてしまう。一度にこんな沢山の感覚を味わえて、とても勉強になった。
(この動画は「鍼狂人の独り言」で後日放映予定)
反面、触られ過ぎてバランスが崩れていく感覚も味わう。心小腸経ラインがズキズキと痛くなって、最後にはお臍周辺に動悸が打ってきた。
途中、師匠の質問に、お腹が今朝から少し緩いですと答えると、足のツボを触られた。
すると、珍しく「難しいなぁ~」との師匠の言葉。
「あ、触られ過ぎて狂ったな!」と言われ、両手の労宮(掌)で同時に私の小腸経ラインを覆われた。
何ともあったかい、ほわっとした柔らかい手。
片方ずつ、圧のかけ方も微妙な動かし方も違っていて、たった数十秒だったのに、あっという間に左右上下バランスを調整されてしまった。
その直後、足のツボにハッキリ反応が現れたよう。
師匠の手、治療を普段から受けてはいるものの…
約60万人の病める方を診てこられた師匠の手。
何十年もかけて作ってこられた手。涙が出るような手だった。
昨日は、将来本当に目指すべき「癒しの手」が、私の生命に刻まれた一日になった。
東洋医学の思想は、果てしなく深遠で魅力的。どこまでも興味が尽きない。
自然と身体と心は一体で、切っても切れない関係としている。
更に東洋思想は、人間の身体を小宇宙と捉え、未知なる宇宙をも包含している壮大な思想だ。
臨床において、この未知なる人間の内面に何処まで迫っていけるかを日々考えざるを得ない。
身体と心を切り離しては考えられないからこそ、鍼を媒介として術者の心も患者さんに通じてしまう。あまりにもストレートに。
また、心身共にバランスを崩している患者さんの、どんな精神状態にも、真の安心感を与えていけるか厳しく問われる。
それらは、ひとえに術者の技術にかかっている。
技術は、形あるものと無いものを含んでいるように思う。本当に奥深い。
先日、師匠、藤本蓮風先生がブログの中で、
「諦めてはいけない。(略)不可能を可能にする夢に生きる。毎日、患者さんに、病に、正面から取り組む。(略)諦めてはいけない。」(臨床というもの33抜粋)
また、「この行為を揺るぎない真実に導くには理論と論理が不可欠。」(臨床というもの31抜粋)と言われていた。
臨床50年を経てこられた師匠の一言一言が目の前に迫ってくる。
この両方の言葉を日々忘れずに精進したい。