週末、通信教育スクーリングで東京は八王子の大学へ向かった。ここは、私の命のリセットの場所。
緑に囲まれたキャンパスで懐しい友人達との再会。
疲れが一変に吹き飛んだ。
授業が終わったら、皆と始まる本音トーク。年齢もバラバラ。
なのに笑ったり、泣いたり本当に元気を満タンに貰える。ただただ感謝。
二日間の「日本教育史」の授業の中で、昭和4年生まれのご婦人が、戦争の体験を語ってくださった。「戦争そのものより、敵が攻めてくる事より、怖い事がありました」と。
そのご婦人のお父様は、背が低かったため戦争には行かず地域の人達を助けておられた。お父様は、空襲で焼けた家々を皆でバケツリレーする毎日に、こんなことをして、何の役に立つのかと戦争に反対。この発言が特攻警察の耳に入り、友人と共に連行される。
「しばらくして父は、友人をおぶって帰って来ました。その方は、父の背中で亡くなっていました」と。拷問だった。
80歳を超えられても尚、学ばれる御姿と、その凛とされたお声に思わず落涙してしまった。
一方、20代の若い女性が韓国留学中に友人から、「憎み合ってても、何の解決にもならない。次の時代を一緒に作っていこう」と言われ、真の韓日友好を実現していくと熱く語っていた。
日本のこれからの教育はどこに向かっていくのか、様々考える事が多い二日間だった。
学びは、考える機会を多く与えてくれる。
教育と私の今携わっている仕事はあまりにも密接。
善良な庶民の為に政治があり、苦しむ人の為に医者がいる。この当たり前が、逆転している所に私の怒りはある。
この休日、世界的建築家、安藤忠雄さんの地中美術館で有名な、香川県は直島に行って来た。
昔ながらの家々、懐しい路地裏、手つかずの山々の緑、色とりどりの小さな花達…
以前、私のところで勤めていた女性が、この直島に魅了され開業したところ。
彼女もまた生き生きと輝いていた。
瀬戸内海には静かな美しさがあり、時間がゆったり流れているようだった。
同時に、沢山の若者達も観光に訪れ、エネルギーに満ち溢れていた。
静と動の見事な調和。人間と自然の融合。本当に素晴らしい島だった。
今日、鍼灸の師、藤本蓮風先生が講義の中で、『無為自然』と、『練達自然』の話に触れられた。修行を積んだその先に、真の無為自然があるとの大切な話だった。
我々の修行は、鍼の技術と、鍼を持つ自分の精神の修行。
「心の癖、心を修正していく事だ。それもワクワクしながら愉しくやるんだよ」と言われた。
修行の場所。それは、「逃げることの出来ない毎日の現実生活の中しかない、逃げられないから訓練になるんだ」と。全く同感だった。
改めて、人生の中でやるべき使命のために、真の無為自然を体得する為に、希望に向かって修行を積む事を決意した。
こんなに素晴らしい鍼の世界。縁のある人々と共に、感動し合いたいとの衝動が心の奥底から湧いてくる。
先日、尊敬する日野原重明先生が書かれた「医学する心」―オスラー博士の生涯―(岩波書店)という本を読んだ。
ウィリアム・オスラー(1849―1919カナダ出身の医学者)は、近代医学の先覚者であり、教育者でもある。オスラーの不朽の名作「平静の心」は有名な著で、私も常に手の届くところに置いてある。
すぐれた医者は人の善性を引き出す天才ではないかと思う事がある。
また、その場の空気をも一変させてしまう。オスラーもまさしくそのおひとりであった。
著書の中に「彼が病人のいる病室に入っていくと、その雰囲気が一変し、活き活きした彼の姿によって病人の心は安らかにされ、病人は彼に身も魂もすべてまかせてしまいそうになるのである。」とある。
私の師匠、藤本蓮風先生も部屋に入ってこられると空気が一変する。心地のいい緊張感と、なぜか嬉しくなってくるから不思議だ。
共通していることは、非常に高次元の使命感に溢れておられるということ。西医、東医関係なく、人間の善性を感知できる人間力とも言うべきものが邪気を動かし、気血を循環させていくように感じる。
著書の中に、「オスラーとしては、投薬は治療のただ一部であり、この他に病人の心理、環境を十分に顧慮することが真の治療だと解釈した。」
更に、「オスラーはかねがね、臨床医が薬を乱用して、そのためにかえって病気の自然の回復を妨げることが多いことを、医療界の大きな誤りと考えていた。」とあった。
西洋医学の医者が、非常に東洋医学に通じる考えを根底にもたれ、薬の多用に警鐘をならしている。それも約100年も前に。
医療人にとって何が一番大事かということをもう一度見つめなおしたい。
アトピー、疳の虫、夜尿症、腋下の腫瘍、頭痛、喘息などなど。
鍼灸院に沢山の赤ちゃんや子どもたちが来院して下さる。それも、喜んで鍼をうけてくれる。(子どもの鍼は刺さない接触鍼を使用)
頭や背中を自ら差し出し任せてくれる愛らしい姿に治療院の空気が一変する。子どもは何て純粋無垢で、邪気がないのだろう。
だからこそ、全ての物の、全ての人の善性を引き出すことができるのだと思う。邪気が無い、つまり無邪気とは何て素晴らしい徳なのか。
気負いも硬さも無く、ありのままを受け取れる感性。
先日も、まだ生まれて数ヶ月のアトピーの女の子が来院してきた。まばたきもせず私を凝視。そしてにっこり笑ってくれる。穴のあくほど見つめられ、ジャッジが下る。笑ってもらって合格。「あ~よかった」と、私は彼女を尊敬の念で柔らかい肌に触らせていただく。
全てを悟っているかのような真っ直ぐな眼差し。宇宙大の深さを感じる。
子どもの偉大さにただただ感服する。
教えられること大だ。
先月6月28日に、鍼灸の師匠、藤本蓮風先生が鍼灸業界初のブログ本を出版された。タイトルは「鍼狂人の独り言」。(ホームページトップ画面に掲載)
銀文字のタイトル、表紙を飾る先生の凄みのある後ろ姿、そして黒のハードカバー。少々驚かれる方もおられるが、まさに先生は「鍼狂人」の名に誰よりもふさわしく、鍼が好きで好きでたまらない。
よく我々に「恋人を追いかけるようなものだぞ」と言われる。鍼の追求は楽しくて楽しくて仕方ないとの表現だ。
研修会に行くと、先生が日々のブログにどれほど精魂を注がれておられるかを目の当たりにする。
先生の情熱が、鍼のすごさを多くの人に知ってもらいたいとの思いが、溢れ出し、文字となったもの。だからこそ感動できるし、元気になれる。
ひとつひとつの文字に先生の大生命力を感じるのは私ひとりではないはず。ある哲人が、「シビレエイは自分がしびれているから人をしびれさす」と言われた通りだ。
鍼医14代目として生を受けられ、60万人を超す患者さんの治療に徹してこられた先生の言葉には真の説得力がある。
先生を代表とする鍼灸学術団体「北辰会」の理念には、東洋医学は真に医学であり、それは体と心そして魂の救済を目指すとある。魂の救済、決して大げさでは無く可能にできる。それ程の哲学性が東洋医学の中にあるからだ。
この本の帯に小さく書かれている「藤本蓮風の魂のつぶやき」の一文字は的を得ている。
ブログの中の最後の章の「道」。私が一番好きな章でもある。
そのはじめに「魂の救済」と題して、「・・・・(前略)怒り人、悲しみ人、落ち込み人。鍼を用いて身体の転化と魂浄化につなぐ。(略)・・・」とある。病をも形成してしまう自分でも気づいていない生命の深層に渦巻く業の嵐。しかし、先生はそのもっと奥にある清浄な世界を示し、気づかせてくださる。鍼灸を媒介として。
技術は勿論のこと、結句は、医療者の信念と人間を愛し信じる力を、患者さんから大丈夫かと、問われているのだと感じる。
「道」の章の写真に、毎週火曜日の勉強会のあと、先生と仲間と共に歩く散歩道が掲載されている。先生が撮られた私の大好きな写真の1枚だ。
生ある限り使命あるこの道を感謝と歓喜の生命で歩み続けていきたい。
縁ある患者さんのために、恩ある師のために、そして未来ある後進のために。
ひとりでも多くの人がこの「鍼狂人の独り言」を手に取られることを心から願って・・・・・。