この休日、世界的建築家、安藤忠雄さんの地中美術館で有名な、香川県は直島に行って来た。
昔ながらの家々、懐しい路地裏、手つかずの山々の緑、色とりどりの小さな花達…
以前、私のところで勤めていた女性が、この直島に魅了され開業したところ。
彼女もまた生き生きと輝いていた。
瀬戸内海には静かな美しさがあり、時間がゆったり流れているようだった。
同時に、沢山の若者達も観光に訪れ、エネルギーに満ち溢れていた。
静と動の見事な調和。人間と自然の融合。本当に素晴らしい島だった。
今日、鍼灸の師、藤本蓮風先生が講義の中で、『無為自然』と、『練達自然』の話に触れられた。修行を積んだその先に、真の無為自然があるとの大切な話だった。
我々の修行は、鍼の技術と、鍼を持つ自分の精神の修行。
「心の癖、心を修正していく事だ。それもワクワクしながら愉しくやるんだよ」と言われた。
修行の場所。それは、「逃げることの出来ない毎日の現実生活の中しかない、逃げられないから訓練になるんだ」と。全く同感だった。
改めて、人生の中でやるべき使命のために、真の無為自然を体得する為に、希望に向かって修行を積む事を決意した。
こんなに素晴らしい鍼の世界。縁のある人々と共に、感動し合いたいとの衝動が心の奥底から湧いてくる。
先日、尊敬する日野原重明先生が書かれた「医学する心」―オスラー博士の生涯―(岩波書店)という本を読んだ。
ウィリアム・オスラー(1849―1919カナダ出身の医学者)は、近代医学の先覚者であり、教育者でもある。オスラーの不朽の名作「平静の心」は有名な著で、私も常に手の届くところに置いてある。
すぐれた医者は人の善性を引き出す天才ではないかと思う事がある。
また、その場の空気をも一変させてしまう。オスラーもまさしくそのおひとりであった。
著書の中に「彼が病人のいる病室に入っていくと、その雰囲気が一変し、活き活きした彼の姿によって病人の心は安らかにされ、病人は彼に身も魂もすべてまかせてしまいそうになるのである。」とある。
私の師匠、藤本蓮風先生も部屋に入ってこられると空気が一変する。心地のいい緊張感と、なぜか嬉しくなってくるから不思議だ。
共通していることは、非常に高次元の使命感に溢れておられるということ。西医、東医関係なく、人間の善性を感知できる人間力とも言うべきものが邪気を動かし、気血を循環させていくように感じる。
著書の中に、「オスラーとしては、投薬は治療のただ一部であり、この他に病人の心理、環境を十分に顧慮することが真の治療だと解釈した。」
更に、「オスラーはかねがね、臨床医が薬を乱用して、そのためにかえって病気の自然の回復を妨げることが多いことを、医療界の大きな誤りと考えていた。」とあった。
西洋医学の医者が、非常に東洋医学に通じる考えを根底にもたれ、薬の多用に警鐘をならしている。それも約100年も前に。
医療人にとって何が一番大事かということをもう一度見つめなおしたい。
アトピー、疳の虫、夜尿症、腋下の腫瘍、頭痛、喘息などなど。
鍼灸院に沢山の赤ちゃんや子どもたちが来院して下さる。それも、喜んで鍼をうけてくれる。(子どもの鍼は刺さない接触鍼を使用)
頭や背中を自ら差し出し任せてくれる愛らしい姿に治療院の空気が一変する。子どもは何て純粋無垢で、邪気がないのだろう。
だからこそ、全ての物の、全ての人の善性を引き出すことができるのだと思う。邪気が無い、つまり無邪気とは何て素晴らしい徳なのか。
気負いも硬さも無く、ありのままを受け取れる感性。
先日も、まだ生まれて数ヶ月のアトピーの女の子が来院してきた。まばたきもせず私を凝視。そしてにっこり笑ってくれる。穴のあくほど見つめられ、ジャッジが下る。笑ってもらって合格。「あ~よかった」と、私は彼女を尊敬の念で柔らかい肌に触らせていただく。
全てを悟っているかのような真っ直ぐな眼差し。宇宙大の深さを感じる。
子どもの偉大さにただただ感服する。
教えられること大だ。
先月6月28日に、鍼灸の師匠、藤本蓮風先生が鍼灸業界初のブログ本を出版された。タイトルは「鍼狂人の独り言」。(ホームページトップ画面に掲載)
銀文字のタイトル、表紙を飾る先生の凄みのある後ろ姿、そして黒のハードカバー。少々驚かれる方もおられるが、まさに先生は「鍼狂人」の名に誰よりもふさわしく、鍼が好きで好きでたまらない。
よく我々に「恋人を追いかけるようなものだぞ」と言われる。鍼の追求は楽しくて楽しくて仕方ないとの表現だ。
研修会に行くと、先生が日々のブログにどれほど精魂を注がれておられるかを目の当たりにする。
先生の情熱が、鍼のすごさを多くの人に知ってもらいたいとの思いが、溢れ出し、文字となったもの。だからこそ感動できるし、元気になれる。
ひとつひとつの文字に先生の大生命力を感じるのは私ひとりではないはず。ある哲人が、「シビレエイは自分がしびれているから人をしびれさす」と言われた通りだ。
鍼医14代目として生を受けられ、60万人を超す患者さんの治療に徹してこられた先生の言葉には真の説得力がある。
先生を代表とする鍼灸学術団体「北辰会」の理念には、東洋医学は真に医学であり、それは体と心そして魂の救済を目指すとある。魂の救済、決して大げさでは無く可能にできる。それ程の哲学性が東洋医学の中にあるからだ。
この本の帯に小さく書かれている「藤本蓮風の魂のつぶやき」の一文字は的を得ている。
ブログの中の最後の章の「道」。私が一番好きな章でもある。
そのはじめに「魂の救済」と題して、「・・・・(前略)怒り人、悲しみ人、落ち込み人。鍼を用いて身体の転化と魂浄化につなぐ。(略)・・・」とある。病をも形成してしまう自分でも気づいていない生命の深層に渦巻く業の嵐。しかし、先生はそのもっと奥にある清浄な世界を示し、気づかせてくださる。鍼灸を媒介として。
技術は勿論のこと、結句は、医療者の信念と人間を愛し信じる力を、患者さんから大丈夫かと、問われているのだと感じる。
「道」の章の写真に、毎週火曜日の勉強会のあと、先生と仲間と共に歩く散歩道が掲載されている。先生が撮られた私の大好きな写真の1枚だ。
生ある限り使命あるこの道を感謝と歓喜の生命で歩み続けていきたい。
縁ある患者さんのために、恩ある師のために、そして未来ある後進のために。
ひとりでも多くの人がこの「鍼狂人の独り言」を手に取られることを心から願って・・・・・。
(患者さんの訴えと異常なしの診断)
先日、患者さんでもある友人から電話があり急遽自宅へ向かった。見ると81歳になる彼女のお父さんが横たわっている。物を言うのもしんどいらしい。その上お父さんは耳が遠く補聴器を付けておられた。ご本人から話は聞けない。
友人曰く、2週間前から、食事も入浴も殆ど出来ない程しんどく様子がおかしい、眠れずにドンドン痩せてきたとのこと。
数箇所の病院に連れて行き、血液検査、エコー、心電図、CTなど検査するも何処も異常はありませんと言われたらしい。最後に行った病院では、肺気腫かもしれないといわれ酸素吸入器を使用した。気管拡張の薬や眠剤も出され服用。それでも、苦しさはおさまらず、彼女の会社に何度も苦しい、しんどいと電話があるというのだ。
早速、お父さんに「どこが苦しいですか?」と尋ねたら、「ここ・・」と左胸をさすられた。心臓かなと思いつつ、それを確認するために、まず顔面診、脈診、舌診、重要穴を触った。完全に心筋梗塞を疑った。検査機器は私自身の五感だ。慎重に治療を施し寝ていただいた。
後に友人から、様々な病院の検査結果などを見せてもらった。異常なしどころか検査結果にもCPK値が異常に高く出ていた。これは、クレアチンフォスフォキナーゼというらしいが、心臓をはじめ骨格筋、平滑筋などの筋肉の中にある酵素で、筋肉を破壊していくらしい。いずれにしてもこの値が高いとまずは心筋梗塞を疑ってもいいとのこと。
しかし、心電図に出ない・・・・医者が迷うのも無理はないが、こんなに苦しんでいるのに異常なしで本当にいいのだろうか?
食生活を聞けば、油物大好き、お酒、タバコなど半世紀以上にわたる。そして奥さんの看護をしながら数ヶ月前に自宅を引越したという。日常生活に非常にストレスのかかっている。
(患者さんの笑顔)
往診して帰宅すると同時に友人から連絡があり、あれからお父さんの調子が良くなりお腹が空いたと今、食事をしていると驚いていた。ご飯2口しか食べれないと言っていたのに・・・
まだまだ油断大敵だが、鍼の効果恐るべしだ。
次の日、再度往診へ。横になっておられたお父さんが私に気づき飛び起きられた。
その行動、お顔の艶から気の充実を感じた。かなり調子が良くなっていると直感した。
実際、この日の気色(顏色)、脈、舌、ツボの状態、共に昨日より良くなっていた。
その上、治療が終わると、色んなお話をして下さった。今回の病気の事で6回も同じ検査をされて次に何が出てくるかすぐに分かったという話。昔仕事場で活躍し70歳を超えても残って欲しいと社長から頼られていた話。本当に嬉しそうに話してくださった。
この笑顔を見るために私は頑張っているのだと嬉しさが広がった。
お父さんは、帰りまた起き上がってくださり、手を振って笑顔で見送って下さった。
(四診(望・聞・問・切)合参による診断)
三回目の治療には、好きなお酒も飲み、ゲートボールに行けるまでに。
この事実を知れば、いかに北辰会の鍼灸治療が優れているか疑う余地は無い。
顏色を見て、脈、舌、ツボの状態を診る。数分もあれば出来る。実際に患者さんに触れて診断する事の重要さを声を大にして訴えたい。
この鍼の効果は、ただ師匠、藤本蓮風先生の教えのままにすればこその結果なのだ。
先生が何十年もかけて何十万人という患者さんの臨床と膨大な学問から編み出された北辰会の鍼灸方法。感謝しない日は一日もない。
検査結果のみではどうしても患者さんの訴えに応えることはできないと感じる。