先月から、疲労感のため外出ができない患者さんの往診に行かせて頂いています。
まだ数回の往診なのですが、不思議に長くお付き合いがあるような感じがしてます。
初めて彼女のお家に入った時、スッキリしていて何て綺麗なのというのが印象でした。
本当に環境のいい外より、ずっとお部屋の空気が澄んでいて心地が良いのです。
勿論きちんと掃除をされているからなのですが、それだけでは無いものを感じていました。
私もそこに行くと元気になって帰れるというのでしょうか…この空間、不思議です。
彼女は決して身体は弱くありません。それは、東洋医学でいう所の「虚」の反応が殆ど見当たらないからです。むしろ運動をよくして発散した方が気が巡っていく「実」タイプなのです。
ある往診の日、ご夫婦と色々雑談をしている時に、この空間の心地良さ、何故か分かりました。
この御夫婦、陰陽のバランスが見事に合致しているのです。2人で完全な円満という意味です。
このお二人が日々発している円満の気が、このお家の居心地のいい空間を作っているのだと感じました。
彼女は、人の何倍も繊細なので、きっと下界の汚れに耐えられないのでしょう。澄んだお部屋は一種の無菌室のようです。これが外に出れない理由のひとつかも。。
鍼で濁りにも耐えられるようにしましょうか。。。ね。
往診で患者さんの御宅に伺う事は、その方の凝縮した人生の気を直接感じれる絶好の場です。
いろいろ教えて頂きます。
私は感受性が人一倍強いのか、人の中に傲慢な言動や態度を少しでも感じると無性に悲しくなります。
傲慢…辞書で引くと、思い上がって横柄な事、人を見下して礼を欠く事とあります。
傲慢さは自分では中々分からないものですし、見抜くのも難しいものです。それは、偉そうな態度をとってる人が必ずしも傲慢では無いからです。
傲慢は、プライドの高さでもなく、ワンマンでもないのです。
もっともっと根深い生命の状態と考えています。
心の底から感謝出来ない心、人の気持ちが分からない心と言うのでしょうか…素直の真反対。
なぜそのような生命の状態になってしまうのか、何かに恨みでもあるからでしょうか?守って貰った経験の不足でしょうか?
そう思えば、更に悲しくなりますが、理由は色々です。大事な人である程、一ミリの傲慢は見過ごせません。必ず将来大きくなるからです。
このように自他共に心の状態を見つめていくことは、時に大切だと感じています。
間違いなく自分の心が、自分の人生を作っていくのですから。良くも悪くも全て自分です。何ひとつ人のせいなどありません。
でも、よく考えると、そんな傲慢な心になりたいと思ってなってる人は誰もいないのでは。。。その一点で許せてしまう自分はお人好し過ぎるのでしょうか。悲惨ほど心に響きます。
先日、東京に足を運びましたが、いつもながら新宿の人の多さには驚かされます。
大阪も通勤ラッシュ時などは新宿に引けを取らない程の人ですが…
無謀にもそんな人だかりを横切った時に感じた事です。
東京人は、私に気づかず、ぶつかっても同じ速度で前を向いて進んで行きます。なぜかその機械的な感じに笑いが出てきました。大阪人は、一瞬立ち止まって邪魔な私に気づいてくれます。
この違いは何でしょうか?
といっても、駅やデパートの店員さんなど、個人的にはとても親切で機械的とは全く感じない東京です。寧ろ大阪より丁寧かもしれません。
大阪は昔ながらの商人の町。「儲かりまっか」「ボチボチでんな」が人によっては今だに挨拶代わりに行き交うところです。
東京は、将軍様のお膝元、ちゃきっちゃきの江戸っ子。首都でもあるので、自分達が日本を支えてるとの一種のプライドもあるのでしょう。
どちらがいいという訳でなく、人々の性格も住む土地に感化されてくると思います。また、自分にあった土地を自然と選んでいるのかも知れません。
きっと東京は大阪の倍忙しくしないと、競争に勝てない土地なのでしょう。あの機械的な感じがそれを象徴しているようです。
それにしても、新宿は四方八方から人が出てきて行き交ってますが、誰もぶつかって無いのには驚かされます。まるで群泳の魚のように一定の距離感を保って一つの大きな魚になって身を守ってるようです。
何回来てもバンバン人にぶつかって、そしてそんな自分に笑ってる私は、生粋の大阪人だと。。。
東京はどこか健気で、大阪はどこかおとぼけ。それぞれの顔が魅力的です。
最近、20年前から頭痛なんです。10年前から頚が痛いんです。15年前から浮腫なんです等々、かなり長い間の症状を訴えて来られる患者さんが本当に多いです。
皆さん、色々な病院を回られて、色々なお薬を処方されて一生懸命治そうと頑張っておられます。
しかし、最後には、医者からこの症状とは一生お付き合いするしかありませんね、と言われた方ばかりです。
そのような方が鍼灸院に来院してこられる現実に、鍼灸の素晴らしさが今後益々広がっていく予兆を感じています。
何故なら、単純に言えば西洋医学の機械論(人間の身体をバラバラにみていく)に対するひとつの限界が見え隠れするからです。
東洋医学は、流派によって治療法は様々で、西洋医学の様に統一性がありませんが、身体を繋がった統一体と捉えます。
それも、身体と心は切っても切れない関係として心療内科でするような問診もさせて頂きます。(北辰会方式では特に)
西洋医学のお医者さんでも、沢山の患者さんを専門的に診られてますので、そこに何か心と身体の法則性を感じておられる先生も多くいらっしゃると思います。
また近年そのような研究も活発にされているようです。
長年何をしても治らないという症状などは、心と体の繋がりも考えざるを得ないのではないでしょうか?
何れにしても、鍼は、心と体を結びつけてくれる調和の使者ではないかと、最近つくづくと感じています。
昨日、某大学の卒業式に通信教育生として参加してきました。三年前、先輩から迷わず挑戦だよ!と背中を押され決意した事が懐かしく思いだされました。
大学卒業には125単位を取る必要があります。編入で入った私は専門科目を後80単位取ればいいわけです。一単位取るために、先ずレポート2~4通を合格してはじめて試験が受けられます。その挑戦がダンボールにどさっと送られてきた教科書から始まりました。
知らない事を知る喜びは大きく充実の毎日でしたが、実際は結構大変でした。
私は高校を卒業してから、夜学生として教育学を学びながらお昼は働いていました。ですから、もっと学ぶ必要を感じていました。
また、この大学の創立者の生き方を敬愛し、私も学ぶことで社会に役立ちたいと考えていました。
スクーリングで何度も大学に通いましたが、初めて参加した授業の事は忘れられません。
西洋教育史でしたが、教授が本当に素晴らしい授業展開をされ、仕事でクタクタになって参加した私の身体に活力が吹き込まれていくのが分かりました。
学ぶ事がこれ程人を元気にさせるのかと驚きの授業でした。
人は学ぶほど謙虚になっていきます。この大学で学ぶ事の楽しさを教えて頂き、スタートに今やっと立った感じです。
自分という人間の可能性を発見する為に、自分の生命を磨いていく為に、生涯学んでいきたいと考えています。