肝の高い人と言うのは、全身の気血を巡らす大元の肝気がとても旺盛な人の事です。
分かりやすく言えば、ヤル気に満ち満ちている人、少しの運動では足りず倍量必要な人、話し出したら止まらない人、声が馬鹿でかい人等々…つまり生命力が普通以上に旺盛で、レベルが極なら殆ど発狂寸前のような状態の人です。
患者さんにも子どもから大人までおられますが、こんな人に出会うと、疾患に関係なくある面ワクワクしてきます。
先日、ある患者さんにこんな質問を受けました。
「先生、私、山登りの時、ある岩の所に行くと、電気が走るんです。これって何故ですか?」と。
「それは、あなたの肝度がいいからですよ。そんなパワースポットあっていいですね。」とお応えしましたが、この方も静かですが、かなり肝が高い人といえます。
その人、「先生も電気きます」と言われました。きっと、私こそが肝が高い典型なのかも知れません。
思い切り運動して、師匠から治療を受けて、何とか落ち着いているのでしょう。
肝が高いのに伸び伸び出来ないと鬱滞(うったい)してきます。この鬱滞こそが、様々な病の大元になります。
肝気が高いのはいいのですが、自分で制御出来る範囲である事や、発散出来ている事が大事です。
発散出来ないと鬱滞し、何らかの塊を形成し易くさせます。制御出来なければ、肝が暴走して様々な疾患が起こります。自己免疫疾患などはその最たるものかもしれません。
鍼は、その鬱滞を解き、暴走をストップさせていく事に抜群に優れているのです。
しかしながら、肝の高い人…大好きです。
悲観主義は何かあると悪い方に物事を考えます。
楽観主義は何かあってもいい方向に物事を考えます。
でも、悲観主義だから慎重になり物事にじっくり取り組めるのかも知れません。
楽観主義は、反省すべき部分を見過ごしかねません。
どちらにも一長一短があるような気がします。
私は楽観主義の前に「逞(たくま)しい」を付け加えたいです。
「逞しき楽観主義」どうですか?
イメージ的には、浮ついた気持ちが無く、どっしり構えた楽観主義です。
先日、あるお子さんの病状が思わしくなく再入院となり、お母さんからメールがありました。
その中に、
「実際に子どもが苦しんでいる時に何をしてやれば苦しみがやわらぐのかもわかりませんし、この苦しみは、耐えるべきものなのかの判断もつきません。」と。
この時、私はひとり喫茶店で勉強してましたが、人目もはばからず涙が止まらなくなりました。
お母さんのお子さんを想う率直な心に感応したのでしょう。
私には、それこそ何があっても必ず治るとの確信があります。不思議にそれは一切揺らぐことがありません。
「大丈夫ですよ!何があっても必ずいい方向に向かうと信じて行きましょう!祈ってます。苦しみ共有しますから安心して下さい。彼に宜しく。」と直ぐ返信しました。
病になる事…我々には計る事の出来ない意味があるような気がします。
「逞しき楽観主義」これを貫いてこそ、その本当の意味が分かるものと思います。
闇が深ければ深い程暁は近いのですから。
今月3月1日に発刊された『医道の日本』という鍼灸専門雑誌に「実千代鍼灸院」が初めて登場しました。
作家の小川洋子さんが、初めて受けた鍼についてのエッセイを昨年、毎日新聞に投稿して下さった事がきっかけです。
私の記事は、小川洋子さんにどの様な治療をしたのかという内容の掲載です。
私は鍼灸師を両親に持つ家庭に生まれましたが、鍼灸師として独り立ちして、まだたった8年。
そんな私が、患者さんを診させて頂き、少しでも喜んで頂けるのは、北辰会という鍼灸学術団体を設立して下さった師匠、藤本蓮風先生や先輩方のお陰です。
今回の記事に対してインタビューを受けた時、2時間程、鍼灸の素晴らしさを熱弁してしまいました。編集の方はさすがに「人の話を聞く」プロですね。
最後に鍼ってすごいんですね!と言って下さった事が何より嬉しかったです。
鍼の素晴らしさを師匠から教えて頂きながら、日々、様々な患者さんの病と闘っています。
この記事に触れて、北辰会方式に少しでも興味を持って頂ければこれ以上嬉しい事はありません。
師匠が後進の私たちの為に何十冊も著書を書いて下さり、本当に今は恵まれています。(北辰会方式を網羅した三部作『北辰会方式ー実践編ー』『北辰会方式ー理論編ー』『体表観察学』も昨年完成)
北辰会も西洋医学で難治とされる難病に果敢に取り組んでいます。鍼灸は医療ですから簡単な筈がありません。
生涯勉強と決めてこれからも自分を磨いていきたいです。師匠に感謝しながら…
大人は程良い距離感を保って関係を築いていくものですが、距離感不必要なのが子どもです。
子どもは見たまま、感じたままの余りにもストレートな表現力を持っています。そして、笑ってしまうほどマイペースです。
小さければ小さい程、本能のような直観力が輝いています。
子どもには全く距離感を考えなくてもいいので本当に楽です。何故なのでしょうか。
今日も、あるちびっ子患者さんに、「よく来たね~」と言うと、ちょこちょこと、満面笑顔で両手を広げて私の足に抱きついてきました。もう、可愛くて可愛くて、距離感なんて考える隙間も与えてくれません。それが子どもの大きな魅力のひとつです。
そして、子どもには、嘘が無いです。でも結構、大人達に気も使っていたりして苦労してるものです。
子どもは大人よりたくさん大人の部分を持っているのです。
大人達も子供のように、素直に、素朴に思いを表現できれば、距離感を考えなくてもいい関係が作れるのかもしれません。
きっと、大きくなると言葉を使えるようになって、身体で喜怒哀楽を表現する方法を忘れて…そこから距離感が生まれてきたのかも知れませんね。
時々、神戸は北区から来られる患者さんから手作りの美味しいお弁当を頂きます。
その方のお弁当の美味しさは抜群でいつも感動してしまいます。
先日も、スタッフと少しお塩のきいた豆ご飯を頂きながら、何事も、微妙なさじ加減が美味しさを決定していくねと話してました。
鍼の世界も、このさじ加減がものを言います。
師匠の治療を見学に行かせていただく事の目的もここに有ります。
言葉には出来ない程の微妙な鍼の刺し方、置鍼時間、患者さんとの間の取り方、呼吸、空間…全てにさじ加減の良さを感じます。さじ加減の良さはセンスの良さなのでしょう。
では、このさじ加減、どの様にしたらいいのでしょう。センスの磨き方を考えたいものです。
先ずは、良いもの、それもその道の一流に触れる事が第一ではないでしょうか。それも、一回や二回ではダメです。一流に触れ続けて、そのセンスを身体に叩き込むのです。染み込ませるというのか…
さじ加減は、思考や学問を超えたところから滲み出るもの。勿論、ある程度の経験値が有っての事です。
更に、所謂一流と言われる方々を拝見すると、どの方も、優しさに深さを感じます。
お弁当の味も、鍼の味も、根底には愛情の深さが合俟って絶妙なさじ加減になるのでしょう。
いつも朝早く起きて、遠方から私達の為にお弁当を運んで下さる患者さんに合掌する思いです。
沢山の愛情いただいて、心もお腹もとっても豊かになりました。
ありがとうございました!