昨年は、何故か何十冊も河合隼雄先生の著書を購入して読みふけっていました。
お会い出来なかった事が残念でなりませんが、先生の言葉が生き生きと何かの折に蘇ってきます。
先生は、ユング派ですので、意味のある偶然の一致、つまり「共時性」という現象が起こる事についてよく語られます。
共時性は、夢と現実が一致するというように、因果的には説明出来ないものです。自我を超える存在や働きに注目するというのでしょうか。
また、先生は精神疾患の患者さんと向き合っていると、ある時、「奇跡ともいうべき偶然」がおきて治癒していくと言われます。
この奇跡を話すと誰も信じないから言いませんがと対談の中に書かれてますが…かなり興味深いです。
更に、源氏物語等に出てくる様々な怨霊やあり得ない展開についても、いつも普通に、あれ、本当の話ですよと語られています。
実は先日、親友というには軽過ぎる無二の友と久し振りに2人で軽くお酒を飲みに行ったのですが…
起こったのです。奇跡とも言うべき偶然が。
内容は伏せますが、私、驚きのあまり思わず泣いてしまいました。
お化けが見えたとかそんなオカルトチックな事ではありません。感動と驚きが交じった涙です。
人生の中で多分一番の驚きだと思います。これからも無いでしょう。死ぬ時にもう一回有るような気もしますが…。今後いい生き方をすればですが。。
今日はここに書き残しておきます。時計を見たら平成25年3月16日深夜でした。
尾ひれはひれを付けるとは、実用日本語表現辞典によれば、「何かと誇張を交えて話しをする、余計なものを付ける」という意味で使われているようです。
過ぎた誇張は必要ないと思いますが、コミュニケーションを円滑にする為に、私は時に尾ひれはひれは大切と感じています。
特に、ストレートにしか表現出来ない女性には必須だと思います。
「人間関係で何かぎこちなく感じる事があるのですが…」との質問に、「多分、貴女が思っている事が相手に伝わってないのでしょうね」と言いました。
特に、男女となると色々難しいものです。恋仲は少し別として、女性側が自分の感じている事を言葉で表現しなければ男性には略伝わりません。
すると、「いつも言ってしまった後で後悔するんです」と。「じゃ、尾ひれはひれを付けてみたら」と返しました。
尾ひれはひれを、主題に入る前の前座と考えてみるのどうでしょう。例えば、「自分を棚に上げて、こんな事言おうかどうか迷って中々言えなかったんだけど…」とか、「ごめんね、私表現が下手で…」とか、そういった感じで。
簡単に言えばクッションになる様な素直な自分の思いの事です。これが有るのと無いのとでは、言われた方の受け止め方も違いますし、自分が後悔する事も無くなります。
溜め込んでカチカチにしてから言うのでキツくなって、ぎこちなくなるのです。
尾ひれはひれは、ゆらゆら柔らかですので是非使ってみて下さい。呉々も短めに。
女性だからこそできる尾ひれはひれなのですから。
私の母は黄色のバラが大好きでした。花言葉を調べてみると、「嫉妬」「薄れゆく愛」などの余りよろしくない言葉から、「献身」「可憐」「励まし」など素敵な言葉までありました。
花言葉は、国により時代により様々に付けられているようです。
中世ヨーロッパでは、嫉妬の象徴のようですし、東洋の風水では、裕福の象徴だそうです。
日本では、黄色は幸福や希望を意味し好まれています。父の日には黄色のバラをプレゼントするのも母の日のカーネーション程有名ではありませんが知られています。
黄色は東洋医学でも重要視されている色です。五行で言えば、身体の中心となる脾土にあたり、全てを育む大元とされています。
中国の古代伝説中の人物で三皇五帝のひとりとされる黄帝も皇帝ではなく黄の字が付いています。
私も黄色が大好きです。爽やかで、目立つようで控え目で、気持ちが明るくなる色だからです。
母の71歳のお誕生日に黄色のバラを71本プレゼントした時のあの喜び様は今も目に焼き付いてます。
悔しくも、母はその年の11月に亡くなりましたが、今月の母の80歳のお誕生日は、「永遠の感謝」の私花言葉と共にお祝いしてあげたいです。
この仕事で人を救っていきたい、なんて大それた事かも知れません。実は患者さんからこちらが救われている気がします。
人は人を励ます事によって元気になれます。毎回、毎回励まされてばかりだと、何か自分が弱い人かの様に錯覚していくものです。
患者さんと術者の関係。一般には、身体が弱く、病に苦しんでいる人と、それを何とかしようと助ける人。まさに、助ける人と助けられる人の関係です。
でも、本当に患者さんは弱い人なのでしょうか。寧ろ、ひとりで病と闘っているすごい精神の持ち主かもしれません。
精神の病だとしても、病に立ち向かっていける人として選ばれた人なのかも知れません。
患者さんは凄いなぁと思う事、よく有ります。励ます事より私が励まされているような…
私が同じ病気になったら、きっとこんなに冷静にしてられないでしょうから。
こうして、私の中では、救う人と救われる人がよく行き来してバランスをとってるように感じます。
貴方は励ます事、励まされる事、どちらが多いですか?どちらも程よく有るのがいいですね。
落ち込んだら誰かを励まして、同じ人を励ましてばかりの人は、相手の素晴らしさを見つけてみるってどうでしょう。
いずれにしても、励ますの「励」は、万の力と書きます。励まして励まされる、そんなバランスのとれた関係って素敵ですね。
シビレエイは、自分がシビレているから、それに触れたものをしびれさすって聞きました。
私が一番幸せと感じるのは、自分がシビレてる時かも知れません。何にシビレてるかって、勿論、この鍼の世界にです。
師匠の書物を読むと心がシビレてきます。ワクワクしてきます。何故でしょうか。
それは、きっと、師匠自身がいつもシビレておられるからでしょう。
長年、古典を日々の臨床に照らし鍼の世界を追求され続けておられる師匠。喜怒哀楽の全ては、鍼灸故の喜びや怒りです。限りなく純粋な世界です。
私もこんな素晴らしい鍼灸を多くの人に広めたい気持ちで一杯です。そのために師匠につき切って学ぶのです。
鍼を愛して止まなかった我が母も、シビレていたのでしょう。今日は母のお誕生日…感慨深い一日です。80歳まで鍼したいわって言っていたその日ですから。
母は亡くなる寸前まで鍼の勉強をしてました。また、「21世紀は鍼を刺さなくても治せるようになりなさい」とも言ってました。
先日、師匠が「鍼はただ介在物なんだ」と言われてました。鍼が好きと矛盾するようですが、鍼灸の世界の究極の事を表現されたと思います。母の言葉と重なりました。
どんな事もシビレてるか否か。この自分のシビレこそが世の中を変えていくと確信します。
本気でシビレてる人に触れると、私の心が、ふつふつと燃えてきます。だからちょっと分かります。本物か嘘か。小我か大我か。
鍼灸の世界は無限の可能性があると断言される師匠、藤本蓮風の鍼に触れてシビレてみるの如何ですか。。。