丹波市にある墓地公園
緑がまばゆいほど綺麗…
今年の連休は、心置きなく墓参巡りしてきました。締めくくりは、母と兄です。
みんな色んな思いを乗り越えて、見事に最期を飾って逝きました。そんな心をお盆は大切に、継承していきたいです。
母の膵ガンは、痛みとの闘いでした。痛みをとる鍼。凡ゆる工夫をしました。それでも襲ってくる痛み…
生きようとする程、痛みとの闘いは激しさを増すようでした。
生きる事を諦めずに、闘いをやめない。。どうすればいいのか悩み、祈りました。
そんなある時、ふっと、母は死を受け入れたと思った瞬間がありました。
それは生への諦めでなく、病気との闘いを止めたわけでもないのに…です。
思えば、今、生きている事への溢れるばかりの感謝だったように感じます。
亡くなる数日前、手で痛い所をさすってあげると、母は、不思議ね、今、何にも痛みが無いといってました。
改めて、生きるという実態は、「今」の中にしか無いということに気づかされました。
喜びも苦しみも、感謝も不平も、ただ「今」の中に。過去でも未来でも無い。自分の心が感じる今この瞬間…それだけが真実なのでしょう。
私は、今、本当に幸せです。私にとって幸せは、前進する事。亡き母に、全ての人に感謝します。
このお盆、やっと、母のふるさと、福島県白河市に来れました。7年振りです。
ここに、祖父母のお墓があります。地震の爪痕は、倒れたままになっている墓石からも感じられました。
蚊に襲撃されながら、お掃除すること数時間…祖父母の嬉しそうな顔が浮かびます。
厳格な祖父は、福島県では有名な鍼灸師だったらしく、その後を継いでいる叔母の診療所にもお邪魔しました。
骨が変形している重症なリュウマチや、ベーチェット病、統合失調症、心疾患等も治されています。
祖父が重んじていた、夢分流という腹診からも、様々に病気を掴んで、治療に用いておられました。
思えば、久方振りに訪ねた我が母を見て、医者よりずっと速く、お母さんきっとガンだよと、言い当てた叔母です。
よく母と叔母を間違って、手を繋いでいた、自分の小さい頃を思い出しました。
昨日、その叔母さんの手を握ったのは、それ以来です。行って良かったと心から感じました。
師匠の鍼については何回か書きましたが、今日の鍼…忘れられない鍼として残しておきたいです。
まだ、右の肩甲骨辺りに痛みがありますとお伝えすると、丁寧に且つ、ざっくりと体表観察して下さいました。
師匠の診察は、触られただけで、何処がどの様に詰まっているか、その深さまで私自身が感じれるスゴワザです。
刺鍼された時、身体が中から大きくねじられるような感覚でした。実際、鍼も真っ直ぐ刺したのではなく、捻じっておられたように感じました。初めての感覚…。見れば、短鍼の細い鍼ですから驚きです。
置鍼直後、眠るという次元ではなく、殆ど意識不明状態に。麻酔鍼を思わせるような。。。途中、目が覚めても脱力して身体が動かないのです。珍しく終了間際まで横になってました。
この日、何も心配いらないんだ、全て上手くいくに決まってるんだからと何度も言われました。
私、何も言ってないのに…です。
上手くいく…は、自分の意思を超えた所のものでしょう。
この確信ある一言を、鍼で、私の身体に、叩き込んで下さった感じがしました。
宇宙のリズムに一旦乗っかれば、人の小さな考えなど取るに足らない事。。。その事を、師匠の今日の鍼は教えてくれてました。
東日本大震災の津波対策で海岸沿いに高い壁を建設する。。その長さに驚き、とても違和感を感じました。賛否両論の防波堤問題…
目に止まったのは、「森は海の恋人」のキャッチコピーです。
落葉樹による腐葉土(発酵した天然の肥料)を通った水は、海に流れて多くのプランクトンを育てるそうです。そのプランクトンを餌に牡蠣等、海の生き物が育つのです。
地球上の全てのものは、持ちつ持たれつ…何ひとつ無駄なく循環しています。
恋人同志の森と海の分断…なんて悲しい事でしょう。
自然と人も分断され、心の安らぎを何処に求めていけばいいのでしょう。
砂浜で遊ぶ子ども達の無邪気な声を無くして何処に平和を求めるのでしょう。
その土地の美しさを誰より知り、愛している人達の思いが一番大切です。
結合は善、分断は悪でしょう。自然のリズムに反すれば自然が 怒るのは当然です…よね。
叡智を結集して、未来まで誇れる対策をと祈ります。
小さい頃から、人は死んだら何処に行くのかとよく考えたものです。
それは、きっと小さい時、祖母の死や、母の友人の死に立ち合った頃から芽生えたように思います。
自分の死を一番身近に感じたのは、阪神淡路大震災の時です。きっと後数秒揺れていたら私は今ここに居なかったでしょう。
一瞬にして、大切な友人が亡くなり、余震の度に、自分の死も直ぐそこに迫ってくるようでした。
大人になって、生きることと死ぬことは、どちらも繋がっていて切り離せないものだと感じるようになりました。
生きる事は、死に向かって歩いてるわけで、誰人も避けられませんが、死もまた生に向かっているのです。
お昼よく活動したら、夜いい睡眠がとれるのと同じ様に、精一杯生きて、自分の使命を果たしたら、休息期間にはいり、充電できたらまた生まれて来る、と教えてもらいました。
たとえ、若くして、また、不慮の事故等で命を亡くしたとしても、後の人が、必ずその人の死を意味あるものにしていく…そうして使命を果たす人もいるのではと感じてます。そう考えないと悲し過ぎますし、私はそうします。
今もっと、死ぬ事と生きる事の両方を大切に考えれば、世の中は変わると思えてなりません。