小さなvサインの積み重ね。
胃腸の中が空っぽ。また癌自体は熱邪の塊。
ある日、腹膜炎らしい激しい腹痛が起こりました。
病院はやめてな…と常々言ってた父ですが、仕方無し救急車がやってきました。
激痛なのに、香水入れといてねとの言葉には、ホント驚きましたが。。。笑いました。
運ばれた病院は何と、私が以前往診していた真隣の小さな2階建ての病院で、幼稚園と隣接。
その造りは自宅さながらの温かさ。障子があったりと家庭的です。
父は、ここは世界一の病院だと大絶賛。
主治医も看護師も、お灸でも鍼でも何でもして下さいよ~とあり得ない程親切です。
この素敵な流れこそ、東洋医学を守ってきた人の福運とでも言うのでしょうか。
危機になっても、鍼灸で復活する父の姿に、看護師さんが、色々質問してこられました。
復活すると、大好きなビールも飲んでいいですよ~と看護師さん。飲めませんので口でうがいですが、美味しい美味しいと満面の笑みでした。
あ~ぁ、床もビールの香り。でもとっても幸せそうでした。
花達からいつも元気を貰います。
色んな癌がありますが、父は食道癌を選びました。選ばれたのか。
食道癌とっても厄介です。癌が食道を塞いで食事が出来なくなります。
口から入れて肛門から出す、この当たり前が出来なくなる…
父の癌は、食道の前にある気管にまで浸潤してましたので、もひとつ厄介でした。
食べられない日々が続きました。これがどれ程辛いことか、栄養点滴、これがどれ程味気ないものか、
なので、時々、口に入れて味を楽しんで出してました。それも凄い勢いで美味しそうに。その姿はホント男らしかったです。
美味しく食べれる事がどれ程幸せな事でしょうか。ゴクンが出来る幸せ。
病気で入院されてる方の為に、笑えるほど美味しい真心の食事を提供する。これが当たり前になって欲しいです。
ともかく、父は文句も言わず、栄誉点滴を自分で取り替えてました。
その姿は余りにも健気。。。尊敬の眼で見つめてました。
刻々と変化する夕日の美。
昨年3月、飲み会で父が「最近、声が出にくくてなぁ、逆流性食道炎の様だ…」と。
確かに、声がかすれてる。お酒の飲み過ぎじゃないの?と皆んな同意見。
そんな父から5月のGWあけに電話があり、「どうやら食道癌みたいだ。お兄ちゃんと治療を検討してくれな。」と淡々と、驚かせてくれます。
直ぐ兄と父の元に。父曰く、ずっと東洋医学で来たからなぁ。と病院は遠慮という感じムンムンです。
父にとっては幸いにも、末期で手術も出来ず、肺の方にも転移。暫く大きな病院で検査入院しましたが、三大療法は受けないとの事で、自宅に戻ってきました。
さぁ、闘いの始まりです。師匠にもご指導頂きながら兄と治療開始です。
何百回「嬉しいなぁ」と「ありがとなぁ」を言ってた事でしょう。
文句ゼロです。だからでしょうか、何故か全て父の思惑通りなっていきます。
皆で必死で父を守る事に精魂を注ぎました。
父は亡くなる年のお正月に、「な、死んだらどうなると思う?」と珍しく真剣な話に。
勿論、まだ病気の事も誰も知らない時です。
人は、自分の死期を直感する事が出来るんだと後から思い知らされましたが、
父も無意識に分かっていたんでしょう。
一番長生きしそうな父からそんな質問が出て、その時は皆で笑ったものです。
その時、今母が生きてたら80だねと言うと、やたらに感心して、そうか!凄いなぁ。80は立派だなぁ。と何回も何回も。
母はいないのに、まるで生きてるかの様に感心する父を見て、どうしたのかな?と思いつつも、きっと、自分が死ぬ年齢も意識してたのかなと感じます。
誰もが避けられない死という問題。
この一大事を見つめてこそ生は本物になるんだと教えて貰いました。
父は素朴な花が好きでした。
父は、数カ所の専門学校で古典鍼灸を教えてました。
中でも、闘病に入る直前まで行岡鍼灸専門学校で教鞭をとっていました。
77歳にも関わらず、古典が読める方が少ない様で居らせて頂いた様です。
私は違う専門学校でしたので、父の授業の様子は知りませんが、
父の卒業生とは縁が多く、父らしい笑える話を沢山聞きます。
耳が遠い為、質問は殆ど受け付けず、試験に出る所は全て教え、実技の合間に黒板の前で堂々お昼寝タイム…
晩年はセロテープ療法なるものを実践してました。(鍼をツボに置いてセロテープで貼り、何分間かしたら取るというもの)
こんな自由人でしたが、父の授業で鍼の面白さを知ったいう方によく出会います。
一度授業受けてみたかったですね。